人類最強の走る民族「タラウマラ族」

ランニングシューズは、適切に走るための技術を製品化したものだけど、実際にはシューズのせいで足が何かほかの動きをすることになっている。それが原因でけがをする。このことに気づいて、シューズを脱いだら、足の痛みはさっぱり消えたんだ。マラソンランナーの9割は毎年けがをするのに、超長距離を走るウルトラランナーほど、けがは少ない。必要に迫られて、優しく軽やかに足を運ぶようになるからだ。


(中略)


彼らの伝統的な走り方は、個人ではなく、集団で楽しみながら走る。人類は、集団で狩りをする動物として進化したのに、現代人は、走ることを個人の努力に置き換えて、自分の順位や時間ばかり気にする。だから走ることが苦痛になったんじゃないかな。タラウマラの人たちは、そんな走り方はしない。
(クリストファー・マクドゥーガル・2011/2/7朝日新聞


40歳を越えてから、長らく足の故障に悩まされている。同時多発テロのように次々と故障が起こる。年齢と遺伝子のせいにして、長い距離を走ることをあきらめていたが、それが逆効果かもしれないという可能性に気づかされた。
足を保護するために、いままで使わなかったようなクッション系のシューズを使い、走る距離もおさえていた。が、事態は悪化するばかり。思い切って駅伝用の超薄底ソールのシューズにかえると、よくなってきた。シューズに頼るのではなく、足の運びかたを工夫する。
しかし44歳の今になって思うのは、不自然なことはしないことだ。そもそもにおいて100kmとか100マイル(160km)とか、そんな距離を生物として走らなければならないデザインにはなっていないはずである。ということで長距離ランニングはやめた。ちょっと未練はあったけど、故障が多いということは体がそれを求めていないと解釈した。
いま、裸足で海岸を歩くことを試みている。数分ももたいない。足の裏が石で痛い。足裏マッサージみたいで、これは体にいいんじゃないかと思うようになった。
(2011年2月初出・2014年8月追記)


BORN TO RUN 走るために生まれた~ウルトラランナーVS人類最強の”走る民族”

BORN TO RUN 走るために生まれた~ウルトラランナーVS人類最強の”走る民族”

毒カワイイの類似性



川島小鳥のロングセーラー「未来ちゃん」と、奈良美智の「にらみ少女」に共通する毒カワイさ。
毒があってカワイイと思うのは、少なくともその表情にウソがなさそうに思ってほっとする現代日本人の屈折した思考回路があるのだろうか。


未来ちゃん

未来ちゃん


君や 僕に ちょっと似ている

君や 僕に ちょっと似ている

魂を掻きたてられぬチャリ小説『走ル』

 新聞の書評で「ただ自転車で走るというだけの小説」と見て、ガクゼンとした。
 自転車でもオートバイでも自分の足でも、ただ「走る」というだけの純粋性を小説にできるとしたら、と思ってきたが、その方法が見つからないままだ。走ることの純粋性を突き詰めると、哲学か詩か、あるいは観念小説みたいなものにはなるが、どうしても「小説」のかたちになりえない。
 さて、書評では「ただ走るいうだけの小説」とあったが、実際には主人公は、まるでありえない設定で自転車に乗りはじめ、ありえない設定の体力で列島縦断をし、しかも走っているあいだ、ずっと携帯で、女と、親と、メールしている。
 これほどに「走る」ことを馬鹿にしているのは、何か深い示唆か暗喩であろうかと思い、ただそれだけを期待してこの苦痛に満ちた小説を読み通したが、最後まで何もなかった。ほんとうに何もなかった。どうせ何もないのなら、女も親もメールも出さずに、ずっと走っていればいいのになんて言ったら、だから昭和生まれは、と笑われるだろうか。
 帰路は新幹線で帰ってくることになる主人公だが、高校生なのに「運賃も八一九〇円で、思いのほか高くない」
 筆者はさすがに新幹線で帰らせることはしなかったが、その中途半端さがいけない。いっそのこと飛行機で帰らせたらよかった。それでもって主人公に「飛行機の三万円はちょっと高くついた」と言わせるとか。
 しかしこれほど掻き立てられぬ自転車小説もすごい。ある意味、すごい。いや、これが狙いなのかも。チャリマンガやアニメですぐ熱くなる馬鹿チャリダーたちに対して、冷静な視線で作者は「へへん」と言いいたいのかな。


『走ることについて僕が語ること』村上春樹

僕の中に新たに生じたもの? ぴったりした言葉が見つけられないのだが、それはあるいは「諦観」に近いものだったかもしれない。100キロレースを完走することによって、大げさにいえば僕は「ちょっと違う場所」に足を踏み入れてしまったようだった。75キロを過ぎて疲労感がどこかにふっと消えてしまってからの意識の空白化には、なにかしら哲学的な、あるいは宗教的な趣さえあった。そこには僕に何らかの内省を強いるものがあるようだった。そのせいで僕は、走るという行為に対して、以前のような「何がなんでも」という、単純に前向きな気持ちを持てなくなってしまったのかもしれない。


(『走ることについて僕が語ること』村上春樹


 村上春樹さんがサロマ100キロマラソンを完走したときの文章である。
 ひとつのフルマラソン大会に十万人を越える応募者が殺到する時代、フルマラソンはいまやテーマパークと変わるところのない予定調和的なイベントかもしれない。
 サブフォーサブスリーという言葉あるように、タイムでも追わないかぎり、42.195キロを走ることは、もはや日本人の嗜(たしな)みぐらいのものなのだ。タイムを越えた「諦観」、つまり走ることの純化を体で感じるためには、100キロもの距離が必要なのだとしたら、ずいぶんへんてこな動物になってしまったものだ。


 

潜水艦暮らし

潜水艦暮らしは任務ではない。信仰だ。


(ロシアの潜水艦クルスクの艦長)


 ロシアの原子力潜水艦クルスクの艦長が艦内に掲げていた標語。
 クルスクは2000年8月に事故で沈没。115人の乗組員全員が死亡。しかし実際は艦内で生き残った23人が海底からの脱出を試みていたというメモが館内に残っていた。


「はだしのゲン」中沢啓治

 娘が「はだしのゲン」を読んでいた。
 小学校高学年のときに、高知市立図書館に入り浸ってゲンを読んだときのことを思いだしながら、娘もそんな年になったかと感慨深く手に取った。
 同じ本だが、ゲンの父親の立場から読んでいる自分があった。父親が戦争反対の頑固者のために、家族は近所から非国民扱いされて、さんざん苛められる。非国民扱いから脱するために長男が出征を決めたときも、断固許さず、見送りもしない頑固オヤジである。
 そのオヤジが線路脇にたったひとり立って、息子の乗った汽車が通りかかったときに万歳三唱をする毅然とした姿に、うえーんと声をあげて泣いてしまった。この年になって声をあげて泣くのは恥ずかしい。


〔愛蔵版〕はだしのゲン 全10巻

〔愛蔵版〕はだしのゲン 全10巻