思索する海綿

 昨日の大きな反省があったので、今日はピンポンダッシュをするときぐらいに粛然と気合を入れ、引越いらいダンボール箱に詰め込めたまま押入の奥にこまれていたブクをサルヴェージした。
 引越社のダンボールには品目ラベルがあって、「春本・文学本など」を発見し、開梱。とりあえず一番上にあった大江健三郎を取り出し(これは単に艶本をカムフラージュするためだけに表層にかぶせられていた。文学はこんなふうに役立つ)、ホコリを払いながら読んだ。
 ノーベル賞作家だ。高尚なことである。が、読んだといっても実際は、中高生のために書かれた文学入門書である。
 くり返し、角度を変え、ロシアフォルマリズムの「異化」の効用について説諭している。中高生向きに書かれているにもかかわらず、何度も言葉の意味が分からなくて読み返した。
 人生の自動化、早送り化を食い止めようと、日常生活そのものを異化するというのが、カッコよくいったところの今回の小田原移民のコンセプトである。「異化」というもの自体は俺の筋肉を構成する繊維の一本一本にまで浸透している、と思っていた。が、異化すること自体が自動化するという想像も及ばぬ陥穽にはまっていた。さらに、この書物を読むことで、俺はもはや頭脳においては理解、咀嚼する力を有していないことを痛くも認識したのだった。
 中高生向けの本ということで悔しくもあったが、思えば遠くまで来たもんだもんだし、昔のように頭で理解しようと足掻きはしない。分からんもんは分からん。が、筋肉が掴む。ぐわし。こんなふうに俺の筋肉が思索的になったのは久々のことで、まさに思索という血流を得た海綿。