付箋(ふせん)

 まわりで起こる小さなことひとつひとつを、きちんと自分のなかに刻み込んでいかないことには、一歩もそこから動けない。いわば僕はそういったタイプの人間だったように思う。それはこの時代を生きていくことを考えると、はなはだ効率の悪いことに違いない。それでも僕は、自分の身のまわりに起こるいろんな考えやできごとのひとつひとつに対して、これは黄色、これは赤、というふうに付箋をつけ、それをときどき出してみては、眺めたり、手の上でころがしてみたりするのだった。ときどき気に入ったもののいくつかを、長い時間をかけて文章にした。それはまるで名前のないかわいそうな手乗り猿たちのひとりひとりに手をさしのべて、顔をのぞきこみ、そして指さきで握手を交わすような手間のかかる作業だった。そして実際に僕の胸ポケットには、いつも何色もの付箋が入っていた。
「ばっかみたい。」
「そうかな。」
「そのシャベリも。」
「ふむ。」
「頭の悪い小説の読みすぎじゃない。」
「頭が悪いかどうかは別として、確かに小説は嫌いじゃない。」
 彼女はきっちり4秒間、目をつぶり、目を開けると同時にグラスを乾いた音で置くと、席を立ち、ほんとうに出ていってしまった。確かに頭の悪い小説みたいだった。
 いつも近ごろは似たような顛末だ。僕のなかの何かが、彼女のなかの何かにひどく障るようだった。戻ってくるかと待っていたが、20分たっても前の席に変化はなかった。彼女の言うような小説なら、ここで何をすべきなのか考えてみたが、けっきょく何も思いつかず、途方にくれた僕は胸ポケットから黄色の付箋を取りだして、日付と場所を書き、
「サトミ、怒って帰る。262回目。理由はかわらず不明。頭の悪い小説と言った」
 と書いてポケットにしまった。黄色い付箋は動植物の名前やあとで調べるためのヒントを書くようジャンル分けした色だったのに、どうしてそこにサトミのことを書くような間違いをしたのか分からなかった。たぶん自分で思っていた以上に動揺していたのだろう。僕は勘定を払い、トイレに行き、居酒屋を出た。
 262回目と記した付箋がサトミについての最後のものになるとは、もちろん思わなかった。つきあいはじめてずっとそんな感じだったような気もするし、付箋は増えつづけ、一応考えていたつもりだったが何かに結実することもなく、そして現実には263回目はなかった。いつもと同じなのに何が違ったのか。いつからか僕は、きまってサトミのことを書いていた青い付箋を使わずに、あのときだけ黄色い付箋を使ったのがいけなかったのではないかと思うようにまでなっていた。しかし、いつのまにかそのことも忘れた。
 十年以上たって、サトミと電車の中で偶然会った。お互い三十半ばになっていた。少し飲もうということになって、手近な駅で降りて店に入った。遅くまで、いろいろ話したが、どれも昔の話ばかりで、あれから何をしていたとか、今どうしているとかといった話はついに出てこなかった。
「あれ、やっぱ今も持ってるの?」
 と言いながら、サトミはグラスを持った指をのばして胸をさした。
 僕は、ああ、と言って胸ポケットから付箋を出した。
「ぜんぶ出してよ。」
 胸ポケット、尻ポケット、中腰に立ち上がって前ポケットから付箋を出してテーブルに並べた。ぜんぶといったわりに彼女は、どれかを読むわけでもなく、あまり興味もなさそうに手で玩んでいたが、
「いいよ。しまって。」
 店の前で彼女と別れ、反対の方角に歩いた。
「駅こっち。」
「いいの。タクシーで帰るから。」
 振り返ると、向うも振り返って笑いながら手を振っていた。ふと自分の肩に目を落とすと、いつやられたのか左袖の後ろの方に、黄色い付箋が一枚貼られていた。はがして裏表してみたが、何も書かれていなかった。付箋をつまんで振ってみせようとしたが、そのときはもう商店街のイルミネーションに溶け込んで姿は見えなくなっていた。
 サトミ、笑って帰る。1回目。