救急車で運ばれる40代の男となりて

皆さん、金曜日はありがとうございました。
Mさん、幹事のお仕事、お疲れさまでした。
絶叫熱狂、そして誓いと祈りの忘年会、楽しかったです。
その後、私は始発を待ちながら松屋でゆうゆうとステーキ丼定食を平らげ、足どり軽くステップなぞ踏みながら電車に乗り、快調に小田原への帰途についていたはずだったのですが、秦野駅を過ぎたあたりでカツゼンとして目を見開き、おええっと気分が悪くなり、次の駅で扉が開くやダッシュでホームに駆け降りたところ意識がなくなり卒倒昏倒、気がつくとホームで数人の親切な老人に介抱されておりました。
「まぶたの横は縫わないと傷が深い。顔から倒れましてな。鼻血もでてるし吐いてる。救急車呼びましょう」
そう言われるのを、酔っぱらってかつがれて救急車では男の名折れ、ここは武士の情け、どうかこのままウッちゃっておいてはいただけぬかと懇願し懇願し、それならせめて駅事務室まで運びましょうと何人かの老人らが僕の肩をかついでくれようとするのをひたすら「だいじょうぶでござる。すみません」の一点張りで辞退。遠巻きに若者ら数人が笑っているだけで、まるで手を貸そうとしないのが見えたことも辞退した理由のひとつです。おまえらの罪もぜんぶ背負って俺が神に裁きを求めてやるとほくそ笑んだものの、電車がホームの人々を連れ去り、いざ早朝のホームにひとり残されてみると、これは本気で凍死しますよ、神の裁きはもう少し後にしてもらおうと急に弱気になり、よろよろと階段をのぼってトイレに行き着きました。この駅、障害者用の設備が半端じゃなく充実している駅でしたが、正直いって死にそうになっている人間にとっては意味がない。視野狭さくの中ではボタンを識別することができない。手当たり次第にボタンを押してやっと開いたふたつめの障害者用トイレに入る。また手当たり次第にボタンを押すがドアが閉まらない。何をするにも悪戦苦闘。流すのも部屋を出るのにも、毎回、全部のボタンを押してみました。再びうずくまっていたところを親切な小母さんたちに拾われ、駅事務室で休ませてもらっているあいだに救急車がやって来て、日赤病院に搬送されました。
 
脳外科の診断で問題ナシということですぐに退院できたのですが、妻子にクルマで迎えに来てもらい、土日はコンコンと眠りつづけました。
 
手をつかずに顔面から倒れたらしく、顔左半分が黒々としたやけどのような擦過傷と痺れと目のまわりの青タンとで、だらしなくたれさがっております。
 
頭を強打したせいか、まだ顔面半分の痺れと頭痛が治まらず、しかしこれによって脳にカツが入って、人生人新たな地平が開けるかもしれぬという期待もどうも無駄に終わりそうな気もしつつありますが、少なくとも何かの記念を残さねばと探していたところ、起き上がれなかったためにまる2日間煙草を吸っていないことに気づきました。
 
酒だけのせいでなく、おもに貧血での卒倒というところにショックを受けております。
虚弱体質なのに気合を添加剤に激しい挙動を行なうことがそろそろ限界にきつつあるのではないかと妻には指摘されました。
「おとーさんはチャレンジャーだから朝とか、がばーって起きるけど、もう無理なんだよ。起きたり、立ったりするときは負担かけないように、ゆっくりやらないと」
「でもああでもしないと起きれない。ふつうに起きられるんなら、布団蹴り上げてそのままブルース・リーの真似をしたり飛んで跳ねて絶叫しない」
 しかし最近ではそれをやっても気分が悪くなるだけで、けっきょく再び横になるしかないような日もあったりで、なんと気合が足りぬことかと、つくづく自分を責め、もっと過激な起床方法について考えてみたりするのでした。がしかし、卒倒の恐ろしさを身にしみて感じた今、これらの気合も制限せざるを得ないなとも思っております。やはり気がつかぬうちに肉体はオヤジになってきているということで、それらも含めて一歩一歩認めていかねばならぬということでしょう。いったい人はいつオヤジになるのでしょうか。
 確かにうろ覚えの記憶の中、日赤病院へと運ばれる救急車内で「40代ぐらいの男性、顔面ザショウ」と無線連絡している隊員の声を聞きながら、チャウチャウ40代チャウとココロの中で祈っておりました。