みゃくみゃくセンサー

 気合でものごとを簡単に片づけようとする悪癖へのよき警鐘であった。
 顔面左半分の痺れがかなり鋭敏なセンサーになっている。
 ふとんからガバと起きたりすると即座に、麻痺した左頬が、みゃくみゃくみゃく、と脈打つ。感覚がないくせに、まるで他人の頬の上で無遠慮にドラムを叩いて暴れまわっているみたいな感じがたいそう不快で、なるほどエンジンに急激な負荷がかかっている実感がわく。こりゃいかんと、横になって、ゆっくりと起き直す練習をした。
 素早い起居。これまで気合と思っていたふるまいの多くで、この「みゃくみゃく」センサーが反応する。しかしながら僕らの世代の多くがそうであるように、10代のころから気合が唯一無比のトレードマークでならしてきているので、何をやろうとしてもセンサーに抵触してしまう。
 気合といってもほんとうの気合というものはオリンピック選手とか限られた人しか出せないものであって、僕のは無駄気合というか、カラ気合というか、「気合入れてメシを食う」とか「気合入れてもやしをイタめる」とかきわめて私的かつ卑小なものである。しかしそれでも僕が生きていく上ではどうも必要なもので、センサーばかり気にして気合節約していると、なんとも物事を進めにくいのだ。ただ、センサーのおかげで、なんでもかんでも気合で片づけようとするのもよくないなと気づくようになった。
 最近、インプレッサWRXのstiに乗っていて思う。ターボは唐突感があって人工的で、オートバイ乗りの僕にはどうも感覚的になじめない。気合はターボに似ている。
 最近、23年前のホンダのレーシングオートバイに乗っていて思う。旧型レーシングマシンのエンジンは、がたぴしと味わい深く、それでいて実にハイテンションである。シンパシーを感じずにはいられない。
 旧型レシプロエンジンを抱く者たちよ。いたわれ。高回転を維持せよ。