能登の野営旅8

■8月20日(日) 大会当日
 2006年、珠洲トライアスロン大会当日。
 朝4時起床。
 ジンマシンはおさまっていたが、顔がむくんで腫れあがっている。目など、完全にひとえまぶたのすごい形相。
 へへっ。ちょっと体調悪いぐらいの方が本番はいいもんだぜ、などと強がってみるが、初のハーフトライアスロンをナメすぎではなかったかと、あとになって思う。
 スタート地点の鉢ケ崎海水浴場までクルマで移動し、大会本部着が午前5時。その前に町にひとつしかないコンビニに寄って、おにぎりとサンドウィチを食った。




 当日受付を済ませ、バイクラックでだらだら準備をしていると、不機嫌な顔をした全身黒づくめのレザーに身を包んだ恐ろしげなおっさんが目の前に仁王立ちしている。
 これが高速道路のサービスエリアとか、高野龍神道路とか、伊豆スカイラインでのことだったら、恐ろしげなおっさんではなく、オートバイ古参の戦友マッシモ卿だと即座に解したはずである。なんせ何年ぶりだか知れないが、マッシモ卿といったら、ぜんぜん変わってなかったのだから。




 単に、あまりに競技場の雰囲気と場違いで、しかも能登半島の先端だったし、何の前触れもなく、つまりサプライズ度が強すぎた。
 なんでも大阪から夜通し下道をオートバイをカッ飛ばして来たそうだ。不機嫌なのではなく、不眠不休の疲れだったのか。いや、彼は昔から不機嫌な顔だった。生まれつきそうなのかもしれない。

起きてあたりを見回すと、人が溢れていた。
友を探す。
直ぐ見つかった。奥さん、子供が一緒。
声を掛けた。
「びっくりしたーーーー」
この一言が聞きたかった。
ほんと何年ぶりだろう。日焼けして真っ黒な顔、腕。
開始時間までの時間、喋った。話したいことがあったのに、 来たら忘れてしまった。
彼がスタートの合図で海に飛び込むのを見て、その場を後にした。
(copyright マッシモ卿「旧友に会いに」)
 全文:http://mixi.jp/view_diary.pl?id=202292212&owner_id=265380


 なんという飄然。
 「びっくりしたーーー」の一言を聞きたくて能登半島の先端まで来るか? これでも世界企業のエリト幹部である。
 でも、オートバイって、そうだったよな。驚く笑顔が見たくて、夜通し走った。
 マッシモ卿とのサプライズ合戦は今にはじまったことではない。それは、1998年、最高潮を迎え『高野真言修験道』として結実した。それからまもなくオートバイ事故で中学以来の盟友を亡くした彼にとって、今回の能登は鎮魂の旅でもあった。
 いつかまた、いっしょに走る気がする。あのときのオートバイはいまだに持っているし、彼のオートバイも変わっていない。もちろん、高野に来たがっていた盟友も。
 何年先になるか分からないが、あいかわらずの旧型のオートバイで、日本のどこかで再会するにちがいない。


     *



 午前6時45分。入水チェック。
 選手ゲートが閉ざされ、ここからは、もうどこにも戻れない。あとはゴールゲートか、救急車の中か。
 7時。第1ウェーブの100人がスタートを切る。サケの遡上みたいだ。本人は一生懸命なんだろうが、はたから見ると、ほとんど進んでいるように見えない。これでも、400人以上の出場者のうち、いちばん泳力を持つグループである第1ウェーブ。それでもこんなふうにしか見えないのだから、観客からすればじつにつまらん競技だろうなあなどと余計な心配をしているうちに、5分後のわれらが第2ウェーブのスタート。
 遠浅なので、ひたすら波の上を走る。30〜40メートル走って泳ぎはじめた。
 体が重い。無理せず泳ぐ。波もないし、コースも広いので、バトルはほとんどない。なんとなく300メートル沖にむかって泳ぎ、ここからブイを右折して、岸に平行に約1キロ進む。経験豊富なトライアスリートからおしえてもらったワセリン作戦で、心配していた首ズレはだいじょうぶそう。しかし体が重く、進んでいる感じがしない。2.5キロは考えるだけでうんざりする。何も考えずに泳ぐことにした。
 やっと折り返しのブイ近くまで来ると、顔に走る電撃、激痛。
 やられた! 電撃クラゲのエラ! 潮流にのって、ついに珠洲まで到達したか。
 折り返しのブイに引っかかっていた第1ウェーブのふたりを軽くげんこつパドルで沈めて前に出る。ごめん。顔は痛いし、エラから逃げたいし、こっちもいっぱいいっぱい。反撃が来るかと思ったが、静かに沈んでいた。ここまで来ると、もう気力もないのだ。
 復路は左右をコースロープにはさまれているが、コース幅が50mほどある。往路は右側のコースロープ沿いに泳いでいればよかったのでラクだったが(それでもブイに2回頭をぶつけて沈んだが)、今度はうまく進路がとれずに、右に左にジグザク泳ぎになってしまう。
 前にも後ろにも人がいない。
 これではロスばかりだ。損をして得をとれ、と、思い切って左端から右端に50mを斜め移動。僕はクロールの息継ぎが右側しかできない。だから、右側のコースロープに沿って泳げば、まっすぐ泳げる。
 当然、こんなコースどりをする馬鹿なやつは誰もいないので、1キロ近く延々と単独泳。ウェットスーツで覆っているはずの脇腹の皮膚に激しい痛みがあって、それを確認したくてしかたがない。痛みは増すばかり。巨大なヒルが吸いついている姿を想像していたら、海底に幻覚が見えだしたので、思考シャットアウト。痛みに耐えて泳ぐ。しかし遅い。
 ぼーっと泳いでいるうちに、ハッとした。
 なんかコースをはずれて、だだっぴろい海の中。
 立ち泳ぎで確認するが、方向感覚がない。ライフセーバーが見えるが、選手がいない。
 残り300mの最終コーナーのブイを探すと、想定とぜんぜん違う方向にある。
 あわててブイをめざして泳ぐときの情けなさ。完全なる無駄泳ぎである。
 幸いなのか、脇腹は痛みつづけ、すぐに思考停止に陥り落ち込む暇もない。
 このへんかと頭を上げて前を見ると、な、なんと、前方から選手の群れが近づいてくる。
 ワーオ、おれ、逆走してるじゃんか。
 ライフセーバーから見れば、脇腹に巨大なヒルをくっつけて発狂し、なぞの迷走をつづける男だったにちがいない。
 しかしあとはこの集団にくっついていって、無事、浜辺にあがった。
 底が見えてから、早く足をつけたくてしかたなかったが、遠浅トラップにはまるのがオチなので、がまんがまんの泳ぎであった。上陸したら、走る気力もなかった。ウェットスーツを脱ぎながら脇腹を見ると、巨大な人食いヒルはくっついておらず、強く赤い斑点ができていた。スティグマ聖痕)か?
 冗談きついなぁ、ったく。
 こっちはもうだいじょうぶだから、早くあのイカれたオートバイのおっさんを、あんたの盟友を追っかけてくれ。


     *


 加護が去ったためか、チャリは走りだしから、ぬかるみの中のように不調だった。
 まず、トランジットで、自分のチャリがなかなか見つからなかった。行ったり来たり。
 マジ、見つからん。盗まれたか?
 立ちすくんで黙考。はたと思いだした。スタート前にチャリをハンガーにかける向きを僕が間違えていて、直前に反対向きに直したのだった。どうりで見つからぬわけだ。トランジットで10人近くに大量パスさる。毎度のことになっている。応援に妻子がいたら、また怒鳴られているところだ。わはは。
 走りだしても脇腹の聖痕はじくじく痛むし、体が1週間分の疲労物質の水溶液にどっぷり漬かっている。本来、僕の泳法は足を使わないので、チャリに移っても、これまでの大会では足が重いと感じたことはなかったが(胸が苦しいとか、鼻水が止まらないとか、そういうことはあっても)、この日は別。速度が出ない。どんどん抜かれる。
 しかし金曜日にコース試走をして焦り禁物と銘じていたので、抜いていったやつの背番号とチャリの車種を記憶に入れて、あとでゆっくり思いだしながら2周目あたりで、疲れてきたころに、じわじわーっと抜き返してやろうなどと、ニヒルな笑みを浮かべながら不遜なことを妄想。
 極限状態にいて、せつに思う。性格が卑小なのではないか。
 段差にのった瞬間、フロントボトルのキャップがすっとんだ。
 ばしゃばしゃとドリンクがこぼれる。顔に降りかかる溶液。幸先(さいさき)いと悪し。
 第一の坂が来た。ランプの宿を頂点とする坂だ。上りきったところには、家族、義父母が応援に立っているはず。ゆっくり上っていたので、彼らの姿を先に見つけ、大声で、
「おーい! 今からカッコつけるから、ちゃんと写真撮ってくれー!!」
 と、ここからカメラの前までの20mほどを、ダンシング、スタンディングの意味なしスパート。



 平地になると、なかなか人を抜けない。
 峠がでてくると、10人20人ごぼう抜き。
 平地になると、みんなどこ行っちゃったんだ〜と思うぐらい前方に人がいなくなる。
 峠になると、どこから出てきたんやというぐらい、わらわらと溜まって、よろよろ上っているから、またごぼう抜き。
 簡単なことである。僕のチャリは坂に強いコンパクトドライブを入れている。他の人はなぜか入れている人が少ない。
 僕のサーベロのような生粋のタイムトライアルのチャリにコンパクトドライブを入れるのは邪道すぎて恥なのだが、脚力のない僕がバリバリのF1マシンを駆動させるためには、ひたすらラクなコンポーネントを選ぶしかないのである。
 海岸沿いの長い平地。はるか前方に5機ぐらいが見えた。じっくり時間をかけて追いつき、抜いた。しかしその先の小さな坂でフロントギヤを変速したら、チェーンがはずれてしまった。直すのに手間取り、再び走りだしたが、さっきの5機にもう一度追いつくのにかなり時間がかかった。小さなロスがけっこうな差になると痛感。
 ロスといえば、フロントドリンクのキャップがなくなってしまったため、飲んで消費する以上の量のドリンクをまき散らして散失している。
「4本つけてる人はイチハラさんぐらいですね」
 とマッシモ卿に指摘されたように、無補給無着陸作戦でローペースでコンスタントに走るために、ドリンクボトルは合計で4本搭載。常時補給用のフロントボトル(ストローつき)、シート後部に2本のスポーツドリンクボトル、そしてフレーム上のSMD(スーパー・マズイ・ドリンク)。
 SMDは今回から液状のパワーバーを10個溶かし込んだ。ものは試しとマッシモ卿に試飲してもらうと、死にそうな顔をしいていた。
 でもこのSMD、ボトル一本で1500キロカロリー含有。まさにハイオクタン
 SMDは20分置きに口半分ぐらい摂取し、25キロに1回の固形パワーバーの摂取とあわせて、無補給で山岳を含む100キロを走りきれるとの素人算段であった。
 しかし想定外の道路清掃車状態でのドリンクのバラマキで、無補給計画が大幅に狂った。おまけに大谷峠の下りを時速60キロで滑降中にシート後ろにつけたロングボトル1個脱落。引き返し登って取りに行く気力もなく、そのまま走った。けっきょくエイドステーションに停止しての補給を2回を要した。3本のボトルを満タンにするので、1回の補給でけっこうなタイムロスになる。
 2周回目の中盤地点を走っていると、ゼッケン186番の選手が走っていた。僕は187番なのでお隣さんだ。抜きざま、ちょっと並走して、
「お隣さ〜ん、こんにちは!」
 と自分のゼッケンを示すと、彼は、
「ギヤの選択を失敗しましたよ」
 と、しきりに言っていた。僕は最初からいちばんラクなギヤしか入れていないので、失敗もない。みんなそうすればいいのに。
 応援する家族のために、各ポイントを通過する予定時刻表をつくって渡しておいたが、各ポイントをほぼ時刻表通りに通過し、後半で若干スピードを上げて100キロのチャリゴールを予定時刻表よりも10分早く、くぐることができた。
 しかしシューズをペダルにつけっぱなしにするトライアスリートっぽいゴールテクを使うことを失念し、シューズをはいたまま、カチャカチャ走った。どうも忘れてしまう。
 チャリを置いて、いざランへと走りはじめたらグローブをつけっぱなし。前回も同じことをやった。もどってグローブを置くと、
「あれ、お隣さん!」
 と、さっきのお隣さんに逆に呼びかけられた。
「いやぁ、ギヤの選択を間違えましたよ」
 チャリが終わったというのに、まだ言っている。よほどギヤの選択が悔しかったのだろう。
 お隣さんといっしょにランスタートゲートをくぐった。この時点で、彼が総合28位、僕が29位。


     *


 チャリでかなり余力を残しておいたつもりだったし、天候も灼熱というほどでなく、条件は悪くなかったはずだ。幸いにも、お隣さんという、ちょうどいいペースメーカーもいた。しかし僕はこの18分後、救護所のテントの下で寝ることになる。



 黒光の瓦屋根の家がつづく旧道。沿道の応援がすごい。珠洲は美女が多い。こんな美女たちが、なぜひとりで猛暑の中、あんなに一生懸命、他人の応援などするのか不思議だった。またしても妄想がふくらむ。
 足の方に余力はあるというのに、頭痛がひどく、吐き気もしてきた。早めにやめればよかった。が、沿道の美女たちや、熱心なじっちゃんばあちゃん子どもたちの応援が無理を強いた。
 4キロ地点のエイドステーション手前で、気が抜けたのか決定的に視野が狭まった。
 お隣さんが遠ざかっていく。走っているのか歩いているのか分からない。エイドステーションだけを一心に見る。倒れるように駆け込んだ。
 日陰に入れてもらい、しゃがみこむ。ボランティアのおばちゃんたちがスポンジで水をかけてくれる。暗いまま視野がもどらない。
 テントの下にマットをひいてもらい、20分ばかり横になった。
 回復の兆しはなく、この状態で残り19キロを走ることなど到底想像もできない。
 審判員が来たらリタイヤを申請しよう。競技説明会でも言っていた。
「つづけるより、やめる方が勇気がいる」
 序盤4キロでやめるなんて、僕はなんと勇気がある男か。横になりながら、なさけなくて涙がにじんだ。汗とぐじゃぐじゃの、だめ男の涙。遠くから応援に来てくれた義父母は折り返し地点の見付島で待っているのだろう。僕のつくった時刻表を手にして、今か今かと。
 審判員が来た。
 自分から言いづらくて、「リタイヤしますか?」と言ってくれるのを待っていた。弱い。とことん弱い。
 その言葉を待った。言ってくれ。そしたら手をあげて「はーい!」と宣言する。しかし審判員もボランティアのおばちゃんたちも、僕が再起して走りだすのを当然のことのように待っている。「だいじょうぶ?」とは言ってくれても、けっして「リタイヤしますか?」とは訊かない。
 しかたないので走りだそうとしたら、おばちゃんたちの激励の黄色い歓声。ほんとうは走る気なんかなくて、ちょっと大げさにしゃがみこんだ。卑小である。それでも、誰もが再走を信じ、リタイヤを呼びかけはしなかった。
 やれやれ。せめて、みんなが待っている折り返しの見付島まで行くか。
 歩いた。観光ウォーキングだ。1キロごとのエイドステーションにいちいち立ち寄り、パイプ椅子にすわってオレンジを食いまくった。どういうわけか、オレンジが無性にうまかった。
 だいぶ後ろの方になっているはずだったが、誰も歩いてなどいなかった。みじめだなあ。
 見付島が見えた。
 延々と歩いた。
 見付島に着いた。予定時刻表からどれぐらい遅れただろう。家族はいなかった。いくらなんでも遅いから、もっと早くに通過したと勘違いしてゴールの野球場まで戻ったのだろう。野球場か。行くしかないだろうな・・。
 残り半分11.5キロ。
 不思議と暗澹としなかった。淡々と歩いた。
 けっきょく20箇所近いエイドステーションすべてに立ち寄り、いちいち腰かけて休んだ。
 後半は比較的気分も楽になって、エイドステーション間を走ってみたりした。その分、エイドではゆっくり休む。インターバルトレーニングみたいだ。
 沿道からホースを引いて水をかけてくれる人たち。エイドでスポンジの水をばしゃばしゃかけてくれる子どもたち。断れなかった。が、ほんとうは寒くて寒くて体は自然と逃げた。
 残り6キロぐらいからは、ぽつりぽつりと歩いている人がではじめた。そのひとりを追い越そうとすると、
「あー、どうしたのー??」
 61番のアイヤーンマン、ナガクラさんだった。
「ナガクラさんこそ、どうしたんです?」
 ふたりで歩きながら近況報告する。ナガクラさんは太股の肉離れをおこしたそうだ。それこそ引きずるような歩き方だった。
「くやしいよ。なさけないよ。ほんとに」
 ナガクラさんは、こうなったら完走しかない、と、きっぱりと言った。今後の悪化が心配だったが、このアイヤーンマンには「やめる勇気」というものは、まったく無縁のようだった。アイヤーンマンだ。
「あと、4キロ。さあ走りましょう。先、行ってください。がんばって!」
 と、ナガクラさんに押し出されるように走りだした。振り返ろうかと思ったが、きっとナガクラさんは嫌だろう。そのまま後ろを見ずに走った。
 ゴール手前3キロからは、ショートコースの最高齢らしきおじいさんと抜きつ抜かれつして進んだ。最高齢でなかったとしても、足は曲がり、ひょこひょこ動いている。70歳以上だろう。
 走る者も応援する者も、なぜか不思議な歓喜に包まれた午後の沿道。
 自転車に乗って並走しながら、あと少し、と応援してくれる美女。椅子から身をのりだして声をはりあげるおばあちゃん。
 最後の交差点を曲がり、野球場への一本道を進むと、ナガクラさんの奥さんが、ガンバレー! とちぎれんばかりに手を振っていた。思わず、拳を振り上げ、オー!! と吠えた。自分でもびっくりするぐらい大きな声だった。「旦那さん、もうすぐ来ます」
 野球場の手前の歩道でワイフがいた。重量2キロのバズーカーレンズを装着した大きな一眼レフカメラを持って、僕の前を駆けている。僕よりも速く走っている。
 そのまま野球場に入ると、アナウンスが響いた。芝生の上を走っていると、娘がコースに入ってきた。手をつないでゴールテープを切った。くるりとコースに向き直ってふたりで深々と頭を下げると、野球場をどよめきと拍手が響いた。
 パフォーマンスではなかった。自然に頭が下がった。他に何ができるというのだ?
 完走のメダルをもらった。娘がうれしそうだった。ワイフは顔が上気していた。義父母も笑っていた。マッシモ卿は居眠りせずに走っているだろうか。



    *


 そのあとも、なかなかたいへんだった。
 大幅な遅れで、宿のチェックイン時刻がせまっていた。僕のつくったタイムテーブルにもとづいて宿の予約を入れている。予定ゴール時刻から1時間20分遅れ。宿は80キロほど南の加賀屋。
 猛然と撤収し、ワイフ運転のクルマは能登道をブッ飛ばして午後4時半、七尾着。ゼッケンをつけたまま投宿。他にも大会出場者がいた。七尾湾を見おろす温泉。極楽。
 夜には岸辺で祭りがあった。宿でもらった抽選券で、義父がみごと1等をあてた。この日、午前勤務を終えてクルマを飛ばしてきた義兄もいた。
 そうそう、例のお隣さんは総合20位(エイジ5位)、ナガクラさんは140位(エイジ3位)に入っていた。
 聖痕はその後1週間たっても痛み、赤い跡が残った。


    *


 翌朝、早くからワイフとマラソンした。1200年の歴史を刻んだ温泉街をまわって海沿いに出た。朝日を千々に返す波も穏やかだった。


    *


 どんな苛酷なスポーツであれ、それが競技であるかぎり、そこでの極限は与えられた極限にすぎない。好き好んで飛び込んでいる極限にすぎない。戦争、災害における極限とは根本的に異なる。
 ただ極限の疑似状況で自分がどうなるのかを体験する意味はあったように思う。
 痛いほど感じたのは、自分の弱さだ。強くなりたいと心から思った。
 午後4時の最終制限時間までを通してみると、通算50人余のリタイヤ者があったが、ほとんどが制限時間ぎりぎりまであきらめず踏ん張った人たちだ。
 競技規定の「ランニング」の冒頭、第21条にこうある。
 出発前に見たときは思わず吹きだしたが、今は身にしみる。

 走ること、歩くこと、這うこと以外の移動法をとってはならない。
 (珠洲トライアスロン2006・ルールブック)


(能登野営の旅 了)


●この日の修練:スウィム2.5+チャリ100+ウォーキング23
        全所要時間 7時間16分21秒(121位/完走330名)
        スウィム  0:45:41 54位
        チャリ   3:27:25 31位
        途中経過  4:13:06 29位
        ラン    3:03:15 269位
        エイジ(35-39M)32位

■この日の教訓:這ってでも、あきらめない。