イ、イトウゥゥーッ!!

 昼間。・・なぜか一家のファミリーカーは三重県桑名の田園地帯を抜ける県道を走っている。鈴鹿山地の雪が美しい。ちょっと長野に似た景色だ。
 クルマが止まったのは大安トラウトレイク。デンソーの工場隣の野池を借りて管理釣り場にした場所だ。デンソーの工場ができる前はアクセスする道路がなかったが、今は立派な道が池の横を通っている。
 強風のなか、桟橋からフライマンが数人、投げを打っている。煙草を吸えないほどの風。この池の放流は週1回。平地の池だが水深があり、夏越えする猛者トラウトの強烈な引きと美しさが人気のハードな釣り場だ。数分眺めて、撤収した。
 夕方。・・なぜか一家のファミリーカーは静岡市、安倍川沿いの県道を走っている。
 葵区油山、畑のまんなかの小さな池で止まった。40m×20mの小さな池。カイサクフィッシングエリアであった。
 夕方とあって、釣り人は思ったより少なかった。娘と竿を持って入る。ワイフは車中で映画鑑賞。2時間限定の釣り。
 いきなり渋い。坊主の危機かと思ったが、ルアーを1時間やって、かろうじてイワシサイズが1尾。
 フライマンもいるが、スレまくっているらしく、あまり釣れていないので、わざわざフライロッドを出す気にもならず。
 関西での釣りのこともあって、もうイワシ以外は来ないだろうとタカをくくって、取り込み用のランディングネットはたたんだまま。確かに、釣れている人を見ても、イワシサイズ。
 フライでなくルアーをやりたいと言った娘も3バイトあったというが、釣果には結びつかず集中力も限界。クルマにもどってていいよ、というと、今日はけっこう集中してたでしょ、と、うれしそう。二日間で彼女はけっきょく足もとバラし2尾で釣果はゼロ。釣れないとすぐ集中力が切れて空想の世界に浸りはじめるので、高い入漁料がもったいない。集中しないなら釣りはやらしてあげない、と言ってあった。
 暗くなりはじめて場所を変えると、スティックでイワシ2尾。
 真っ暗になってから、アタリが出はじめ合計8尾イワシ。
 釣りが気になるのか、クルマにもどっていた娘がときどき見に来る。
 僕のほかには釣り人は誰もいなくなり、ますます好調に。
「うわー、おとーさん、プロみたい!」
「わははは! ほれっキタっ」
「どうして急に釣れるようになったの?」
「人がいなくなったから」
 誰もいないし、最後に投げながらぐるっと池をまわって帰ろうと言って、最後のルアーチェンジ。ふと、ワレットの奥に見覚えのない黄色いクランクルアー。つまみあげると娘が、
「あ、きのういっしょに買ったやつだ」
「すっかり忘れてた。せっかくだから、これ、やってみよう」
 池に向かって投げてみるが、まっくらで何も見えない。足もとに来たかと思ってピックアップしようとしたら、鈍い重み。
 ゴボッ!
 ぐぐ、ぐぐっ、と絞り込まれるような引き。
 あきらかに今までイワシとは違う。鈍い重い引き。ときどき闇に波紋を投げるゴボッという水音。
ニジマスじゃないね、これ」と娘。
 水音でそこまで分かるとは。しかし確かに違う。何の前知識もなく入った池だが、ニジマスしかいないかと思って侮っていた。
「まどかッ、ネットたのむ!」
「あいよっ。どこ?」
「ずっとあっちだ。置きっぱなしにしてきた。あっちの電燈の下」
「がんばってね」
 それほどの強烈な引きではないので、切られることはないだろう。せいぜい40センチ級か。開成の方が強烈なニジマスがわんさかいる。しかしニジマスの突っ走るようなヒキではない。鈍く、じわりと、しかし着実に糸を引き出されていく。ぜんぜん近寄ってこない。
「なんだぁ、こいつ!」
「ネット持ってきたよ」
「やべ、それ壊れてたな」
 柄がはずれたまま、ネットと連結できなくなっていたが、娘は、
「だいじょうぶ。やってみる」
「おー、今度はなんかこっちに来たぞ〜」
 ぐんぐん糸を巻く。引き寄せたのではなく、向うからこっちに突っ込んできた。
 足もと近くに来たが、数回はやりとりが必要だろう、と思っていたら、柄のないネットで一発で娘が獲物を仕留めた。
「マジ、天才っ!!」
「おとーさん、これ、へんだよ」
 ネットをのぞきこむと、確かに変だ。丸太みたいな銀色の魚。頭部の斑点。
「い、いとうぅぅぅーっ!!」
「い、いとうぅぅ??」
「い、いとうぅぅう!!」
「い、いとうぅうう??」
 まるで学校の親友だった伊藤君が魚に成り果てて眼前に現れたかのように、ふたりで伊藤伊藤と叫びつづけた。釣るのはもちろん、まぢかで見るのだって、はじめてだ。
 イトウ・・以前は北海道に生息する幻の巨大魚だったが、今は養殖技術の発達により、放流している管理釣り場も増えてきた。
 2007年やることリスト中の最難関の課題、「イトウを釣ること」を、妙ないきさつながら、思いも寄らず達成。
 小ぶりなイトウ。写真を撮る手がふるえた。
「おかーさんに報告してくるっ!」
 娘が走っていった。
 フルマラソンを失してイトウを得る。2007年シーズンの、DNSでラッキーなすべりだし。