10年前、この日、この場所で

 と、新郎が急に左車線に寄った。ブレーキランプはつかないのに、リヤをホップさ せながら減速。
 うわわわ、と思ったら、わたしの右横を真っ赤なものがよぎり、スピーカー特有の くぐもった声が制止を告げる。
 新郎は何やら手をあげて抗議している模様だが、パンダは前に出て、なおも何か言っている。
 新郎は走りつづける。パンダはハザードを出して左によせながら減速。
 新郎は減速しながらも左に寄せる気配はない。
 スピーカーの声が次第に怒鳴り声になっていく。
『聞こえないのか! 早く止まるんだよ!』
 そのとき、車線の真ん中で新郎がバイクを急減速した。つづくスピーカーの声はほとんど叫びに近い。
『危ない! 止まるんじゃない!』
 瞬間、新郎のCBR1000Fは白煙を巻き上げ、あっと思ったときには、もう点と消えていた。


 お、おーい……。


 わたしはその後、豪華な護衛つきで袋井ICまでわたし専用道と化した路肩を走り、 そこの詰所で尋問を受ける。
「あれ、仲間じゃないのか?」
「知り合いなら逃げたりしません」
「いっこ前のICで会ったろ? 同んなじような走りしてたぞ」
「いっしょにしないでください」
「橋本さん、なんで捕まったか分かる? スピード出しすぎだよ。あとねえ、左側追い越し」
「知りません」
 思いきり態度のわるいわたしに、あきれはてた警察官は、
「まあ、橋本さんはいい人みたいだから、軽い方にしてあげるから。はい、それじゃ 免許証だして」
 ここでにわかに強く出ていたことを後悔する。免許証が2枚出てきたのだ。やけくそで悪態続行。
「帰ったらちゃんと返しにいきなさいよ。その他に住所変更とかないですね?」
「引っ越ししました」
「じゃ、住所も違うの」
「はい」
「本籍は栃木?」
「いえ、それも変わってると思います」
「はあ?」
 首をかしげる警察官。
「ちなみに苗字も変わってます」
「じゃ、この免許証であってるの、生年月日だけ? だめだな。結婚したらちゃんと免許証も変更届だしてもらわないと」
「すみません。昨日、結婚したもので」
 善良そうな警察官二人は顔を見あわせた。
「何やってるの。こんなとこで」
「新婚旅行です。いちおう」
「旦那さんは?」
「・・・(さっき逃げた背中に★のついてるやつ)」
「どこまで行くの?」
「四国」
「はああー、道のり遠いだねえ」
 相手のわたしを見る目が次第にあきれを通りこして畏怖へと変わってきているのが分かる。
「じゃあ、気をつけて」
新婚ロードルポ「ザ・ルーツ」市原佳代子1997)


「ここ。わたしが連行されたとこだ!」とワイフが言った。
 ETCゲートをくぐる手前でクルマを左に寄せて止まった。
「ほんとにここだっけ?」
「一生忘れないよ、袋井。ほら、あそこの高速警察隊の詰め所・・。覚えてないの?」
「こっちは場所の名前見る余裕なかったからなあ」
 そのはずである。僕はそのとき、時速200キロで走りつづけてきて、きんきんに熱くなったオートバイを茂みに隠し、妻の900ニンジャがとまっていた警察詰め所にむけて匍匐(ほふく)前進していたのだ。

 さて、袋井ICを出たのはいいが、新郎はどこに? 実はあとから聞いた話なのだが、新郎はあのあとすぐにICで降り、反対方向に舞い戻る途中でパトカーに護送されるわたしを見つけ、ICでまたUターンして袋井ICまで来たら、詰所にとまっているパトカーとわたしのバイクを見つる。いったん料金所を出てバイクを降り、あとはゲリラよろしく、木々のあいまをほふく前進ですすみ詰所の様子をうかがっていたらしい。
新婚ロードルポ「ザ・ルーツ」市原佳代子1997)


「とりあえず記念写真でも撮っとこうか?」
「そうだね」
「しかし、ETCレーンの手前で家族並んで記念写真って、かなりヤバくないか?」
「うん。かなりヤバい。やめとこか」
「記念写真っていっても、記念するようなことでもないし」
 とりあえず詰め所の写真だけ撮った。
 高速道路を走りながら、
「ほんとに袋井だっけか? なんとなく掛川(※隣のインターチェンジ)っていうイメージがあるんだけど」
「袋井だって」
「だとしたら、すごい偶然だ。釣りのあと、ほんとはまっすぐ磐田インターのつもりだったのに、」
 まるで吸い寄せられるように、僕たちは袋井にたどり着いた。
 雨の予報でマラソン大会は当日入りにしようということになってたのに、晴れたので急きょ前日入りし、少し離れた釣り場に行き、もよりのインターチェンジに行くはずが、夜道を池や温泉を探して走っているうちに、袋井。
 そもそもまっとうに宿をとっていたら、高速道路のパーキングで車中泊しようなんてこともなかったから、こんな夜に見知らぬインターチェンジに入ることもなかったろう。
 前日の結婚10周年記念日をないがしろにした罰として、ワイフに高級旅館でもおごらせようかと企んでいたのだが、ちょっと待て・・、
「もしかして、袋井で捕まったの、10年前のちょうど今日じゃないか?」
 えっ、と顔がこわばるワイフ。
「そうだよ。だって昨日が記念日だろ。ってことは結婚式した日。その翌朝、寝ゲロでかぴかぴになった頭でホテルを出て、そのまま四国ツーリングに出発した。つまり今日だ」
 しーん。
「これは偶然じゃない。符牒だよ。メッセージだ」
「どんな?」
「まだ分からない。でも、すこし警告っぽいシグナルが含まれていそうな気がする。なんせ警察だしね」
 すべての偶然がたとえ必然の結果だとしても、それでも奇跡は存在する。人がそれに意味を与えずにはいられないからだ。
 小笠パーキングエリアにクルマをすべりこませた。小さなパーキングで売店はすでに閉まっていた。
「まあ、いっか。さっきコンビニ寄ったしな。あるんだろ、食べ物?」
「あ、買ってない」
 僕の煙草と酒しか買ってこなかったとワイフは言った。
 何考えてんだよ、と、思わず声を荒げてしまった。言ったあとで、何考えてんだよ、ときつい言い方をするほどのことでもないとも思った。怒りは自分で火をくべていくものだ。
 パーキングには、いくつか自動販売機があったが、
「さっきのコンビニで、細かいのぜんぶ使っちゃった」
 とワイフ。自販機も使えない。
「ふつうさあ、旅のときは万券だけにならないように気をつけるよな」
 また声を荒げてしまった。不穏な空気を敏感に感じとった娘が、わざとらしいほど明るくふるまいはじめた。
 車内にもどって横になると、ほどなくワイフと娘の寝息が聞こえてきた。
 酒を二本飲んでも眠くならず、ウイスキーをちびちびやりながらサンルーフを細く開けて夜風を入れた。星がきれいだった。
 さっきワイフは「袋井」という場所を覚えていたが、僕は覚えていなかった。
 反対に、10年目の同じ日だということを僕は思いだしたが、彼女はそうではなかった。
 小さなことだ。しかし以前は感じなかった小さなズレが少しずつ目に見えるようになってきている。生活でも、旅先でも。
 夕食、小銭。なんでもないことだ。どうにでもなった。飯を食いたいのなら、高速を降りてデニーズにでも行ったっていいし、小銭がなくても10キロも走れば終夜営業のパーキングだってある。そうしなかったのは、苛立っていた理由が、ワイフの反応を含めたこのささいなズレへの怖れだったからなのかもしれない。
 気づかないぐらい小さな小さなズレ。見えないほどのヒビ。
 でも、グランドキャニオンほどの断裂だって、最初はみんなそうだったのだ。
 そういえば、袋井インターを抜けて高速道路を走っているとき、ワイフが楽しそうに言っていた。
「携帯電話なんてなかったのに、あのあと、どうしてぴったり会えたんだろうね」
「携帯ぐらいあっただろう?」
「なかったよ。世の中にはあったかもしれないけど、すくなくとも私たちは持ってなかった」
「浜名湖サービスエリアで再会。そこんとこは、よく覚えてるよ」
「どうして浜名湖にいるって分かったの?」
「きみの姿は見失なったけど、あのあとパトカーを追尾してやったんだ」
「まさか逃げた男が真後ろにいたとはね」
 たてつづけにトラックの光が邪魔そうに窓の横を通りすぎては遠のいていった。メーターは時速80キロを割りこんで70キロ台をさしていた。
 ワイフが10年前に伴侶として選んだのは、ちょうど10年前のこの日、この場所を、風に刃向かって懸命に200キロで走っていた男だった。茂みを匍匐(ほふく)前進していた男だった。少なくとも、小銭のことで文句を言っている男ではなかった。けっして。