マラソン大会当日(後編)

 スタート後から5キロまでは、だんご状態でペースが遅いが、後半に2つの峠越えを控えているので、このぐらいで余力を残しておいた方がいいだろう。
 10キロ地点。だんごもばらけてきて、トライアスリートらしき2人とトロイカ体制で抜きつ抜かれつ切磋琢磨しながら、少しずつ前にでる。茶畑の丘陵地帯。小さなアップダウンがつづく。左ももの後ろ側の筋肉に小さな違和感を感じる程度で、調子はよい。
 15キロ地点。一度、クツヒモがほどけた。すわって結びなおしたが、ほどなくトライアスリート2人に追いついた。ペースはかなり自重しているつもりだったが、右くるぶしと右脇腹が痛みだしたので、さらにペース自重。やがて2人から引き離されはじめた。
 20キロ地点。痛みは解消。いったんは引き離されたトライアスリートたちだったが、抜いたあと、彼らはペースダウンして後ろに消えてしまった。自重した一定のペースを刻んでいる。良好。
 25キロ地点。ひとつ目の峠越え。6キロにわたって延々とつづいた上り坂。かなり自重したつもりだったが、足の筋肉にダメージがではじめた。下りの急坂でキロ3分ちょっとのハイペースで走ってみたが、息はきれない。スタミナより足の筋肉に不安要素。
 走りながら苦手な算数の計算。42÷3=?? んーと、んーと、14。
 28キロポイントを越えたら、つまり残り3分の1になったら、自重を解放して、いっきにゴールまで走り抜こう。
 それにしても、ここのところ、ずっと、変な人たちに囲まれて走っている。
 白髪まっしろのおばちゃん。
 競歩みたいな走り方の小さいおばちゃん。
 きょえー、きょえー、とリズミカルに大絶叫しながら走っているおっちゃん。
 よれよれのトレパンとシューズで、体の半分が麻痺で動いていないおじいちゃん。
 ミュージシャンなのか、アフロ頭で枝みたいに細いアンちゃん。
 茶髪のぷりぷりセクシーねーちゃん。
 ずっと上を向いて走っている長身のあんちゃん。(この人のクツはイトーヨーカドーで買った、以前の僕のクツと同じ)
 激しく脱力したが、ここは自重である。
 待ちに待った28キロポイントを越えたが、自重がきいて好調。息ぎれもなし。
 念には念をおしてもう1キロ。自重のダメ押し。
 そして29キロポイントの看板を過ぎてからの第二の峠越え、ATフィールド全開ギヤチェンジ、肉体のケモノを解き放って、ぴゅーーんっ!
 うわー、めちゃめちゃ、はえー!! わはは、みんなおさらばー、と快調に疾駆。
 30キロ地点。どうしたんでしょうイチハラ選手、おおーーっと、ブレーキかァ???
 ブレーキなんて、ないって。
 ギヤチェンジからわずか1キロで足の筋肉繊維は完売御礼。乳酸満員御礼。
 だからギヤなんて、ないって。
 余力を残しておいたと錯覚していたのは、あくまでスタミナ。足の方は麻痺していて状況が分からなかった。ほとんど攣(つ)っている。一歩でもへんな動きをしたら、攣る、おわる。
 さっき快調に抜いた人たち全員に抜き返され、恥ずかしさも完売御礼。どうにか給水所にたどりつく。
 当初はフルーツステーションで、フルーツを思いっきり食ってやろうと思っていたのに、純真な応援の人たちが「がんばってください!」と言って渡してくれるフルーツを、おかわり、おかわり、おかわり、おかわり、と延々と食いつづける雰囲気でもなく、足を引きずりながら再出発。
 35キロ地点。もうロボット。誰の足か分からない。感覚がまったくなし。一度、軽く屈伸をしようとしたら、まったく曲がらなくてびっくりした。こちこちの棒みたいな足を、棒みたいに動かす。竹馬状態、ちくばの友。
 長い上り坂。落伍して歩きはじめる者が、またひとり、またひとり。サバイバルだなあ。次は自分か、と思った。救急車も通った。乗りたい。ふと足を見ると、走ってない。
 走れ! と脳は指令を出すが、足はまったくこれを無視。すごい。もう一度、走れ! の電気信号。足は沈黙。誰の足?
 命令無視は軍法会議だっ、と、脳が足に言ったが、無反応。いや、これは走っているのだ。きっと。どう見ても歩いているが、足は足でたぶん走っているのだ。
 白髪おばちゃんに抜かれ、アフロに抜かれ、競歩おばちゃんに抜かれ、ほどなく視界から消えていく。
 セクシーねーちゃんにまで、ロング茶髪をさらさら揺らして抜かれたときには、脱力を越えて欲情した。
 止まりそうになっては歩き、止まりそうになっては歩き。
 やがて背後から、怪鳥のような無気味な絶叫が近づいてきた。
 きょえー。きょえー。きょえー。きょえー。
 ああ、ついに絶叫マンにまで・・。
 と、そのとき、
「ハーモニクス反転! ありえません。足が、再起動しています!」
 パニックに陥る脳内司令部。
 怪鳥の声が近づくのが止まった。引き離すことはできなかったが、一定の間隔で後ろに絶叫を聞きながら40キロ地点通過。
 残り2キロ。絶叫マンの雄叫びが、いつしか、ここちよいリズムとなって耳に届く。どんな応援よりも、これ以上に僕の足を突き動かす原動力はない。メトロノームのように、呼吸も、足の運びも、絶叫に調和していく。
 ゴールまで最後の激坂。
 みんな体が傾いて、足を引きずっている。僕も体が傾いて、足を引きずっている。背後から絶叫。歪む風景。
 ゴール500m手前の小さなトンネル。出口のまばゆい光に、傾いた体を引きずって走る人々のシルエットが浮かびあがった。とつぜん、滝のように涙があふれでてきた。
 自分を自分でほめてあげたいと言って泣いたマラソン選手を見て寒気がするほど嫌いだったのに、なんたることか、自分が泣くとは・・しかも、まだゴールしたわけでもない。何の脈絡もなく、大量の涙だけが出てくる。意味不明。理解不能。
 脳内司令部は混乱しつつ、事態の収束に努めるが、もうほとんど大泣き。
 頭の中で何が起こってるんだ???? 
 ゴールまで200m。激坂。
 南極アムンゼン隊のように、ゴール目前で動けなくなって、へんに屈曲した姿勢で立ち尽くしているランナーもいる。足が攣っていて、かがむことさえできないのだ。そして周囲の誰もが、同じ危険を感じていた。
 泣きながらカニ歩きをした。もう、まっすぐ歩けなかった。横向きに歩きながら坂を越え、芝生のゴール花道へ。
 どこで見ているか分からない妻子にカッコわるい姿は見せられぬと、まっすぐ走ろうとしたが、無理だった。ぜんぶ使い果たした。
「体傾いて入ってきた人がいると思ったら、おとーさんだった」
 案の定、そう言われた。
 ワイフは10キロの部を、1時間1分で完走していた。
 フルマラソンの総合優勝は2時間34分52秒のトヨタRC。これからほぼぴったり1時間遅れて、僕と絶叫マンはゴールした。(3時間35分26秒)
「セクシーねーちゃん見た?」と、ワイフに訊いた。
「見た」
「白髪のおばちゃんは?」
「見た」
競歩のおばちゃん」
「見た」
「アフロは?」
「ミュージシャンっぽい人のこと?」
 みんな僕の少し前に、無事ゴールしていたそうだ。
「世の中、なめてた。出直す」
「へえ。また出るの? マラソン」
 いや、もうしばらくはこりごり。