『八月の路上に捨てる』伊藤たかみ

「あんたみたいなのは三十過ぎてから干上がるよ。包容力ないから。やっぱり大人はそこだわ」


 2006年芥川賞受賞作。作者の妻は直木賞作家の角田光代角田光代も直木賞をとるまえは、何度も芥川賞候補になったように記憶している。
 20代のフリーターの既婚男性の一日を描く。職種は缶ジュースの自動販売機の補充のアルバイト。おもしろい設定だ。
 回想として挟まれる話は、妻との離婚のいきさつである。妻は憧れの編集者の職についていたのだが、人間関係がもとで仕事を辞めてしまい、やや精神も病んでしまう。妻の収入がなくなったので、もともと脚本家を志望していた男は、生活のために夢をいったん路上に捨てる。

 アルバイトに疲れてアパートに戻ってくると、知恵子が台所のテーブルに座っていた。ヘッドフォンを片耳にかけ、レコーダーに話しかけている。何をしているのかと訊くと、きらりと笑った。アナウンスの勉強を始めたのだとか。学生時代、彼女が放送研究部にいたことは敦も知っている。しかしなぜ今になって、青春の一ページをめくり直そうというのかはわからなかった。通信制のアナウンス講座一式を頼んだらしく、アクセント辞典やレコーダー、ヘッドフォンだのマイクだの、まとめて二十万近い出費がいったらしい。家でごろごろしているだけだとあっちゃんに嫌われてしまうから、私も生き甲斐みたいなの見つけようと思ってさ。知恵子はそう説明した。
 不気味に感じたのだ。まさかつきあい始めの頃にやっていたゲームをまだ続けているのか。何か特別なことでもしていないと順位が下がるというのか。自分たちは二十代も半ばを過ぎている。夢なんて大久保の排水溝に落っことした。新宿の路上で汗と一緒に流してしまった。それでもその先には、案外、まっとうな幸せがあるような気もしている。


 日本で騒がれはじめた「格差社会」なるものを確かにとらえた作品として注目された。が、僕にはどうもそういう作品のようには思えない。ここにある貧困は、食うに事欠くような深刻な貧困ではない。夢も妻も八月の路上に捨ててしまうにしては、あまりに若すぎて不気味ささえ感じる。

しかし何より難しいのは、運ぶときのバランスだ。完全に調和が取れてしまうと、前に進まない。推進力を得るためには、均衡を破る必要がある。それはどこか、男と女の関係のようだった。


 主人公は妻とうまくいかなくなって、なんとなく知りあった美容師と関係するようになる。しかし離婚が成立すると、美容師とも別れてしまう。

「無様なの、いいじゃん。そんな綺麗に浮気できないもん」
 水城さんは言った。「よくさあ、気づかれないでやる浮気はいいとか言う人いるでしょ。最後に戻ってきてくれればいいって。だけどあれ間違ってるよね。男と女でしょ、本気になったらみんな無様になるって。修羅場にもなる」
 うちの親なんか、今はそれで上手く収まっているんですが。敦はそう言った。母の逃避行以来、不倫だとか逃避行だとか、はたまた長崎という言葉でさえあまり使わないようにしてきた。突然テレビに映った女の裸のように、家族みんなでなかったことにしたのだ。それでどうにかやっている。今まで離婚せずに家族を続けていた。
 すると水城さんが、そんなのは違うと一刀両断にした。彼らは上手く収まっているのではなくて、互いに嫌な状態に慣れてしまっただけだと。
「まあ、あたしもいい歳だから堅いこと言うつもりはないよ。何もなかったことにするのもいいし、結婚生活と不倫とを両立させてもいいだろうし、色々あるのはわかってる。でもそれって、何だか寂しくない?」
「だったら冷静なダブル不倫とかにしておけばよかったかな。知恵子にも愛人を作ってもらって」
 本気じゃないだろ、と水城さんが言った。凄みがあったのでつい、極論ですよと言い訳をしてしまう。しばらくして彼女は、ダブル不倫ってのはあたしの言う浮気に入ってないんだよなあ、と意味ありげなことをつぶやくのだった。
「何て言うのかな。両方割り切ってやってるのは、セックスつきのお茶飲み友達みたいなもんでさ。セックスって言うから変だけど、そう、乾布摩擦の濡れてるようなもんじゃん。それで心が繋がって満足なら、まあいいんだよ」
「まったくわからないです」
「だから互いに欲しいのは、心までってことでしょう」
 あたしが言ってるのは、心のもっと先が欲しくなるときのこと。水城さんは言うのだが、敦にはなおさら真意がわからなくなった。第一、心の先になんて何があるというのだ。率直に訊いたが、答は戻ってこなかった。心の先って言ったら命ぐらいしかないですねとおちょくってみたら、水城さんは意外にも、「あー、そーかもなー」と同意した。