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ウルトラマラソン初参戦レポート

走る

 本日、木曜夜の出発で、上越くびき野100kmウルトラマラソンに高校同期のオオイ君と参戦してきます。
 金曜日は受付と前夜祭。土曜日は午前5時スタートで大会本番。
 前夜と大会当日夜は上越インター近くの健康ランド「上越の湯」にオオイ君と宿泊。今回は妻子も応援団でついて来ます。
 100kmマラソンなんて応援しようがないじゃないか、と再三言ったのですが、この大会では応援バスなるものが出るらしく、やむない感じです。応援が来るとリタイヤしづらくなるので、困るのです。


 けっきょく腰痛は治らず。熱だして寝込んでからの二週間、まともに運動していません。
 どうなることやらという感じですが、考えてもしょうがないので、とりあえず行って、やれることやってきます。
「前回のときはすごい気合入ってたけど、今回はおとーさん、達観してるね〜」
 と、ワイフに感心されましたが、達観というよりは諦念です。
 けっきょく人間はやれることしかできない、ということで、やれることやってきます。


 この機会に、ということで今年4月に初参戦した奥熊野100kmウルトラマラソンのレポートを仕上げました。ずっと書かなかったのは、きっと思い出すのも痛かったせいでしょうか。
 読んでいただければ、私の今回の諦念の意味が分かると思います。


     *


 ついに来た。三年待った。
 この時代にあって、郵便以外の古風な通信手段を持たぬオオイくんが、驚いたことにケータイメールを送ってきたのは、2008年二月も末だった。

千尋殿 お久しぶり、大井て゛(原文ママ)す。 奥熊野のウルトラマラソンは如何ですか? 下名は参加を検討していますが、一緒に如何ですか?


 ウルトラマラソンという、70kmとか100kmも走る競技があるということを知ったのは、三年前に届いた一通の大判の封書によってであった。差出人はオオイ君。
 ウルトラマラソンの参加要項と申込書といっしょに、短冊のような便せんに「ごいっしょに如何? 大井」とだけあった。
 フルマラソンというぐらいだから、42.195kmがいちばん長い競技かと思っていたので驚いたが、それよりも高校のときはいっしょにトランプばかりやっていたオオイくんがそんなものをやっていることに衝撃を受けた。高校のときの彼は水球部だった。
 オオイくんがやってるなら、僕もやってみるかなという甘い考えがよぎったが、なんだかんだと考えているうちに申込期限が過ぎてしまった。その後、二度と声がかからなかった。
 悔いが残った。が、そのとき僕はまだ10kmさえ走ったことがなかった。
 その翌年から二年間のあいだに、ショートトライアスロン、初フルマラソン、アイアンマン・トライアスロンにも挑戦し、着々と準備を進めていた。
 しかしオオイくんからの連絡が来るまでには、さらに一年を待たねばならなかった。


 奥熊野ウルトラマラソン・・平地で100kmを走ることでさえ、すでに想像の域を越えているのに、ましてや山岳の100kmマラソン。正直、準備不足とかそういう以前の問題。考えだしたらキリがない。内心では、まず平地主体のサロマ100kmを完走してからと思っていたが、ここで辞退すれば、次に声がかかるのは何年先か。


 返信を書き、送信ボタンを押した。

やりましょう。奥熊野。
市原


 すぐさま、あ、押しちゃった、と思った。決めたはずなのに、やっぱり時期尚早と考えてしまう。あと1年あれば、とか、せめて平地のサロマであったならとか、いろいろ考えてしまう。でも、きっとそんなものだ。考えだしたら、どんなことでも時期尚早に思えてしまう。何も考えず、やると決めたときが、そのときだ。

 御意に。 早速申し込みます。ちなみに、本日、犬山ハーフマラソンに元ちゃんと走ってきました。。大井


 この「元ちゃん」と、大井くんと僕とは、高校時代のトランプ仲間である。
 運動会をさぼってトランプ・・合唱祭の練習をさぼってトランプ・・体育をさぼってトランプ・・あまりにも高校の輝ける三年間を無為にトランプばかりやっていたものだから、学年主任が発行する学年新聞に「明日を語れぬトランプ仲間」という見出しの記事を書かれた。(そうは言いつつ、僕は高校二年後半からは、ドラゴンクエストをはじめとするファミコンゲームのせいで、あまり学校に行かなくなってしまったので、トランプ仲間さえもドロップアウトだったが)


 明日は語れぬトランプ仲間も、二十年後にはウルトラ仲間になっていたりするのだ。


 4月25日(金)の深夜に小田原を出発し、翌早朝には紀伊半島を走っていた。
 飛び連休のハズレ年とはいえゴールデンウィークの初日だ。渋滞は覚悟していたが、南紀新宮で熊野川にかかる橋を渡るところで一回渋滞したぐらいで、あとは順調に走って昼前に熊野入り。
 選手用駐車場は那智駅のまん前。つぶれたコンビニの駐車場と空き地。まだ誰も来ていないようだ。駅の向こうは南紀の海。無人駅の那智駅と隣接して共同浴場温泉があったので、ひと風呂浴びる。ほかに客はいない。
 酒屋でビールを買い、軽自動車のサイドドアを開放してちびちびやっていると、海からの風がここちよい。うつらうつらしているうちに夕方になり、オオイくんから電話が入った。
 クルマで10分ほどの紀伊勝浦駅に行く。電車で参加する選手は紀伊勝浦近辺のビジネスホテルを割り当てられていて、名古屋から電車で来たオオイくんのホテルもここにある。
 3年ぶりのオオイくんは、やっぱりオオイくんであった。彼は高校のときから、やっぱりオオイくんだった。


 4月27日、日曜。午前3時。
 車中泊用に家から抱き枕まで持ってきたのに、ほとんど眠れなかった。
 クルマを出て、煙草を吸いながら真っ暗な中を軽く散歩していると、近くの神社に停車している大型バスの光が見えた。
 選手がぞくぞくと乗りこんでいた。あわてて準備を整え、バスに乗りこむ。


 午前4時、バスは出発し、霊場熊野の山をのぼっていく。
 那智滝の駐車場でバスの扉が開いた。あたりはまだ闇が深い。奥熊野の夜は濃いのだ。
 選手は90名ぐらいで、受付もいたってシンプルで簡単。
 支給されたビニール袋に補給食、エアーサロンパス、シューズ、テーピング等を入れて係の人に渡すと、ゼッケンと同じ番号札をつけてトラックに積み込まれた。
 このトラックは60km離れた公民館で選手たちの荷物を下ろす。多くの選手は後半用のシューズを入れると聞いて、僕もそうした。後半は足がむくんでサイズが1cmぐらい大きくなってしまうので、スタート時のシューズとは別の、大きいサイズのシューズを入れておくのだ。が、オオイくんはそんな小手先技を使う気配なし。リストウォッチも金属ベルトのビジネス用だった。


 午前5時、スタート。
 最初の5kmは上り、15kmほど下って、また10kmほど急峻な上り。平地がほとんどない。
 オオイ君は序盤でうんこに行ってしまい、しばらく待っていても来ないので、先行して走っていたが、20kmを越えたあたりから手のひらがむくみはじめた。指がぱんぱんに膨れて、どらえもんみたいである。なぜか上半身にダメージが集中。体調が悪いのかもしれない。幸いにも40km過ぎからむくみは消えていった。


 補給所は5kmごと。地元の特産物が並べれていて楽しみだ。長机の前に一列に並べられたパイプ椅子に選手らが腰かけて接待を受けている。通常のレースでは見られない妙な光景だ。めはり寿司の補給所では、すっかり腰を落ち着けてしまい、4個も食った。あまりに美味とはいえ、いくらなんでも食いすぎである。


 40kmを越えてからは、棚田のあいだの縫う畦道のような細道を進む。延々と上りで、ほとんど歩く。フルマラソンの距離を越えても、まだ半分も来ていないという事実にガクゼンとする。
 50km地点で峠を越え、足が動かなくなってきた。折り返しの下り。ここでオオイ君に捕捉された。
 キロ6分30秒ぐらいのペースだと思うが、動かない足には信じられない速度に感じる。無理してついていったら60km手前で足指の皮がむけてしまい、飛び上がるほどの激痛。
 補給所でオオイくんが絆創膏をくれたので助かった。
 以後、オオイくんは視界から消えてしまい、単独走。周囲に選手がいなくなったこともあり、進みながらニコチンを補給して痛みに耐える。


 70kmを越えると、つらさが嘘のように消えて、どこまでも走りつづけられるような「神の領域」に至る、というようなことを村上春樹が「走ることについて僕の語ること」という回りくどいタイトルのエッセーに書いていたので、僕も早く神の領域が訪れないかと、今か今かと待っていた。
 が、現実は厳しい。履き替えた後半用のシューズはアシックスが開発した100kmマラソン専用シューズで、アーチを引き上げるアーチサポート機能なるものがついている。にもかかわらず、足底筋(アーチ)が完全に下がってしまい、次第に痛みが深まってくる。
 補給所でマッサージとアイシングを7分間受けた。
「扁平足ですね。テーピングもしておきましょうか?」
 ボランティアの施術師に言われた。自分が扁平足とは知らなかった。
 テーピングのおかげで平地基調の80km地点まではかろうじて、ほんとうにかろうじて走るカタチをとることができた。が、痛みは着実に激痛の域へ。そしてここから10kmにわたる上りの峠越えがはじまる。


 あとわずか20kmという思いと、されどあと20kmも、という思いが交錯しつづける。
 ちょっと走っては、歩き、ちょっと走っては歩くのくり返し。なかなか現れない距離表示がうらめしい。
 痛みを耐える感覚から、痛みとともに生きていく感覚へと麻痺していく。痛みに無関心になることしか方法はない。神の領域はまだか?


 13時間30分の制限時間が危険ラインだ。時計を忘れてしまったので、他の選手と会うたびに時間を訊く。
「ウォッチを持ってこない人は初めて見たよ」
 と、あきれられた。この人は三年連続出場で、前年は92km地点でリタイヤし、今年はリベンジなのだという。
 90kmを過ぎれば、あとは気合で何とかなるだろうと、祈るような気持ちでいたのに、甘い考えはみごとに打ち砕かれた。とにかく一歩でも早く前進するしかない。
 正直、こんなつらい、というより痛いことは、もう二度とやりたくない。再チャレンジはまっぴら。もう何が何でもこの一回で完走して終わりにしてしまいたい。モチベーションらしきものがあるとしたら、そんなものだった。


 峠の頂上。90km地点の看板。ここから最後の下りである。
 神の領域どころか、足底の痛みはますます強くなり、もはや無関心を装えない。足をおろすたびに飛び上がる。歩く、というより、痛みで飛び跳ねて進む感じだ。
 下り地獄。上りでは、そろそろと足をおろすことができたが、下りはブレーキをかけねばならない。着地するたびに涙がにじむ。
 つらいのではない。ただ、痛い。


 クルマで通りかかる人が「がんばれー」と応援してくれるが、まったく応える余裕がない。じっと歯を食いしばっていたせいで、頬の内側から血の味がする。
 下りの10kmは完全な単独行だった。


 98km地点の最後の補給所では、特産の那智黒が待っているはずが、すでに品切れだった。これは泣いた。那智黒が何かを知らなかったせいもあるが、最後のご褒美、きっと夢のような食べ物にちがいないと信じていたので、落胆も大きかった。しかし、とにかくあと2km。


 交通量の多い県道を進む。もはやほぼ平坦路である。
 しかしクルマを避けて路肩を歩いていると、側溝に落ちそうになる。笑ってしまうぐらい、まっすぐ歩けない。スタートしてからすでに12時間。制限時間は何とかなりそうだが、まったく気を抜けなかった。一歩、次の一歩が限界の連続で、その次の一歩で何が起こるか分からない。


 99km、残り1kmを切っても、まだ完走できる確信はなかった。人生でもっとも遅く、長く、痛い歩みだった。一歩踏みだし、休む。また一歩踏みだし、休む。左足は完全にだめだったので、軸足として固定してしまい、右足だけを動かして進んだ。
 神の領域は僕にはなかった。ゴールに近づけば近づくほど、きつかった。
 99kmの看板を越えてからの1kmの痛みは生涯忘れることができないだろう。
 ゴールでは、1時間半も前に着いたにもかかわらず、オオイ君がずっと待っていてくれた。
 一服して、オオイ君と中の島温泉に行った。バリアフリーのありがたさが、よく分かった。が、肝心の露天風呂には、けっきょく行けなかった。浴場内にある階段を下りられなかったのである。
 終始、けろっとしていたオオイ君はこの年、合計4回のウルトラマラソンに出ることになる。
 僕は痛む足でクラッチを踏み、軽貨物車でかろうじて小田原の家に帰り着いたものの、二日間、熱をだして寝込むことになる。
 オオイくんから「次は、6月の隠岐ウルトラマラソンは如何?」と連絡が来たのは、まもなくである。
 ウルトラはもうまっぴら。事実、足底筋膜炎で一ヶ月はまともに走ることもできなかった。