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お昼の時間はわたしの時間

 実家のおじいちゃんの家で娘と、幼なじみのさゆりちゃんが絵を描いた。
 実家は娘の絵で壁が埋めつくされている。

 猫のように見えるが、これはおじいちゃんの飼っている馬鹿犬のまりである。まりはあまりに馬鹿なので、家族はみな、まりの大ファンである。私に至っては、まりの物怖じしない馬鹿っぷりに畏敬の念を抱くほどだ。
 まりは足が悪いのか、すわりかたがへんだ。それがまた馬鹿っぽい。
 絵は足のいびつな造形によって、だれも文句のつけられない、まりの「お昼の時間」をうまく表現している。
 赤い首輪が色彩上の重要な重しになっているという一般論もいえようが、妙な足の曲がりぐあいが「私の時間」そのものなのである。



 一方、こちらはさゆりちゃんの絵。
 同じ場所、同じ時間に描いても、小学6年生の関心の視界にあるものはこうもちがう。
 いうまでもなく、すべり台である。どこか、さびしげな絵に見える。
 しかしさびし気というステロタイプな物の見方をあざ笑うかのような箇所に目が止まり、反省する。
 部材と部材の継ぎ目のリベットに至るまでの正確な描写。絵ぜんたいのまろりとしたバランスからするとT型金具を漏らさず描く正確さが異質だ。地面と足との継ぎ目のコンクリート。すべり台の金板の末端処理。この少女が、物事の「接合部」にしぜんとフォーカスが合ってしまう視野の持ち主だと分かる。
 思えば物体と空気との境目にも彼女は黒い縁取りを与えている。娘の絵に縁取りがないのとは対照的だ。


 つなぎめ、とは畢竟、何か。
 なぜ「つなぎめ」に興味を持つのか。
 やわな感傷を拒否するハードボイルドがそこにある。