厄年と老いOS

厄年とは、昔の人はよくいったものだ。前厄、本厄、後厄で三年。
なってみるまでは、そんな日本中の男、あるいは女がある年齢でいっせいにアンラッキーな三年間を迎えるなんて馬鹿げていると思っていた。
しかし、これは何か肉体の変化に伴う不安定さを意味しているのだと分かった。
だれでも、30代後半あたりからは、いやがおうにも老化を感じさせる現象に気がつくようになってくるだろう。
僕の場合は、過度の運動をしたときに生じる獣のような匂いとか、鼻毛の白髪とか、手のひらの乾燥と皮むけなど。老眼まではいかないが、目の解像度と暗視能力は著しく落ちている。まっすぐ歩いているつもりでも、気をゆるめると壁や電柱に肩をぶつける。背筋の歪み、体幹のぶれ、ひずみが蓄積し、顕在化してきているのだろう。火のついた煙草をぽろりとやってしまうこともある。脳からの指令に対する肉体側の実行精度が落ちてきたことは強く感じるところである。
40歳では足の故障をはじめ、体の各器官が不安定で、そうなると精神も引きずられる。
酒はあまり飲めなくなり、以前はウイスキに水など入れられたら、そんなもん飲めるかと放擲していたものが、さいきんは自分から「限りなく水に近くしてくださいまし」と低調子である。
なので、二日酔いはほとんどないし、吐いたりもめったにない。単に吐いたり二日酔いするほど飲めないのだ。すぐ眠くなるし。
仕事でも徹夜が厳しくなり、集中力がつづかなくなり、同じことを何度も言う。
こういうときには事故も起こしやすくなるだろうし、ケガもしやすい。病気も気をつけろというのが、総体的な「厄年」の意味だろう。
ところが41歳も半分を過ぎて、このところ、安定感が出てきた。皮膚は脱皮を終え、みずみずしいとまではいかないが、ふつうになってきた。
きっと40歳前後からの数年間は、細胞の統合システムの更新期みたいな感じで、不具合が生じやすいのだろう。それを越えれば、老いモードの新しいオペレーションシステムによる定常運転に入るということか。
この老いモードのOSは、わるいことばかりでもなく、なかなか味わい深いところもあるなあなんて思っているのだが、今朝、妻に言われた。
「もしかして、前髪、薄くなった?」