トライアスロン初挑戦in大島〜2

 封筒を忘れ、肩身の狭い思いで告げると、にこやかに年齢を聞かれた。
 ゼッケンナンバーは年齢順になっていて、簡単に私のゼッケンは見つかった。
 71番のゼッケン、大島の塩、バスタオルなど、おみやげ満載のバッグを受け取り、あこがれのボディ・ナンバリングへ。担当の人が二人いて、
「スーツはどっちですか?」
 と聞かれた。
「はああ? スーツですか? なんでしょ?」
 身振り手振りつきでウェットスーツが長袖か袖なしかを知りたいのだ、とおしえてくれた。ガイジンと思われたのだろうか。
「長袖です」
 と言ったら、手の甲にマジックインキで「71」と書かれた。
「オー! ノー! 肩ニモ書イテクダサーイ!」私は懇願した。
 肩にある番号が屈強な囚人みたいで憧れだったのだと伝えると、二人のボディ・ナンバリング担当さんは、にこやかに右から一名、左から一名、私をはさむように書いてくれた。
 ここで、また私の追憶が入る。回想の多くてなかなか前に進まない挑戦記である。
 私は小学生のころから、ずっと周囲の人々からガイジン扱いされ軽視されつづけてきた。高校生のときにも、体育館のジムルームに潜入していた小学生数人をつまみだそうとしたら、「うわー黒人だー!」と逃げられたことがある。ガイジンといっても黒人と言われたのはさすがにはじめてで、当時はそれなりにショックを受けたような記憶があるが、今あらためて高校卒業のアルバムを見ると、確かにエディ・マーフィーっぽい感じがしなくもない。それに今、コクジンだー! と言われたら、すごく喜びそうである。時代も人も変わる。
 フェリーターミナルの正面エントランスの横で海パンに着替えた。ワイフとプリンセスがいろいろと世話をやいてくれるが、いいサラシモノである。こんなとこで着替えるのは私だけだが、みんながどこで着替えているのか分からないのと、離島の解放感が私を裸にさせたにちがいない。観光客も地元の人も、ガイジンだから、と思って笑顔で見逃してくれていたのだろうか。日本人の奥さんをもらって、子どもも生まれて、まあまあ、日本人のおかあさんに似てよかったわねぇ、って、いくらなんでもそれはちょっと言い過ぎじゃないか、って誰も言ってないって。
 受付でもらったウィダーインゼリー3個とアミノサプリと大島の塩をボトルに入れてシェークすると、プリンセスがひどく顔をゆがめて、
「おとーさん、マジ?」
 こういうときの女の子の表情は、高校生ぐらいにも見える。しゃべりかたもマセてきたものだが、私はあくまでもマジである。このゲル状の補給食、「SMD」という。いうまでもなくスペシャル・マズい・ドリンクの略である。
 腹が減るとまったく動けなくなり、かつ燃費がきわめて悪い私はSMDは必須である。チャリで走行中、みんなのように両手をハンドルからはなして華麗に運転することができない私は、走行中に、袋を開いて飯を食ったり、ゲルのキャップを開けたりできない。このため佐渡210kmロングライドで難儀し、危うくハンガーノックで走行不能に陥る危険ぎりぎりまで迫った経験からSMDを開発したのである。開発は嘘で、一夜漬け教本として買った「トライアスロン・マガジン」に書いてあった。ただし「SMD」というカッコいい名前は私が開発した。認知度はゼロであるので、うっかり外で使わないよう。


 


 スタートまで1時間を切った。時刻は午前11時過ぎ。
「うそ。まだ2時間ちかくあるでしょ」
 ワイフに言われ、大会スケジュールを見に行くと、彼女の言うとおりだった。
 スケジュール表によると、スタートは赤帽子が第一グループ、以下、緑グループ、黄グループと順番に時間差で行われるとあった。へえー、帽子の色でスタート時間が違うんだ〜、と、私は自分の手もとにある赤い帽子を見た。バトルの熾烈な第一グループ。絶望した。
 気持ちを落ち着けようと、スタート地点の下見に行った。
 なんかすごい波です。
 うねってます。
 どっぱーん! って、いってます。
 ボートの人の大きさと波の大きさ比べてください。
 流れが強く、スウィム競技用のブイが流されて岩場に漂着したのを、ライフセーバーが必死で拾いだそうとしていた。(あとでライフセーバーさんの話を聞いたところ、これはホントに命がけだったそうだ。岩場にもし人が流されても、セーバーさんでさえ追っかけての救出は諦めるということだった)
 マジ、これ泳ぐのデスカ?
 生きて帰れるのデスカ?
 どのぐらい呆然と海を眺めていたことだろうか。防波堤の上にいても襲ってくる巨大な波にも、もはや私は動じなかった。あのときの不思議な感覚を回想してみるに、何というか、ヒトカワむけたような感じでした。自分の皮がずるずるムケてゲル状の私に。
 ここからの私は、無料で配られるバナナを何度も受け取りに行っては食い、同じく無料でふるまわれていたアミノサプリを何本も飲んだ。
「そんな飲んでだいじょうぶなの?」
「ふふ。これはですね、ハイポトニック・ウォーターローディングっちゅうて、ロングスウィムにおける脱水症状を防ぎつつ筋肉の燃焼効率を高める科学的なアプローチなのだぞよ」
 と、またもトライアスロン・マガジンに載っていた受け売りをする。
「トイレ、だいじょうぶなの?」
 試し泳ぎの時間が近づいてきたので、ウェットスーツを着た。
 まもなくワイフの懸念したとおりの結果が。
 うう、トイレいきたし。しかしウェットスーツを脱ぐのは、かなり厄介である。けっきょく10分おきに尿意を感じ、苦労して15分おきにトイレに行くことになった。おそるべし、ハイポトニック・ウォーターローディング!
 試し泳ぎの時間が来て、海に入った。
 足をちょぼっとつける。いやだなあ、冷たいですよ、これ。
 しぶしぶ膝ぐらいまでの水深に進むと、波であっけなく押し戻された。ハンドボールぐらいの岩がごろんごろん流されてきて、ぼさっと立っていると、すぐに足は血まみれになりそうだ。後ろから来た人の真似をして、波に向かってジャーンプ!
 おおー! のったぜー! って、サーファーじゃないんだから喜んでいる場合じゃなくて、ここで必死で前に進まないと、岸にもどされてしまいそうだが、うまく引き潮に吸い込まれた。
 嗚呼、ぼくは今、海を泳いでいるんだ、という感動。
 海を。怒濤の海を。
 水の冷たさも忘れた。
 波が来た。ライフセーバーが注意しろと叫ぶ。
 直後、呑み込まれた。泡がすごくて、暗くて濁っていて海藻だらけで、って走馬灯だしている場合じゃなくて、生きるために浮上し顔を上げる。また波。波というより壁だ。前が何も見えない。
 ウェットスーツと塩水による浮力が強いおかげで、沖にでるにつれ、だんだん愉快さが増してきた。この感覚、どこかで覚えがある。デジャビュにしては近い。2週間前の映像。
 暴風雨の佐渡島をチャリで走る男。うつむきながら笑っている。
 つまり、やけくそ、ってやつだ。



 試し泳ぎは誰よりも遠くまでいった。
 そこまでやるか、といったところが私らしい。ライフセーバーに、もどってくださいと言われた。
 岸に戻ると家族が駆け寄った。
「どうだった? 寒くなかった?」
「寒くないよ。気持ちいい」
 私はかなり饒舌になっていた。というより、喋りが止まらない。すでに脳内麻薬「エンドルフィン」が分泌されてきたようだ。
 陸地にいるにもかかわらずゴーグルをつけたまま私は喋りつづけた。ゴーグルをつけたままなのは、エンドルフィンのせいでもなく、ましてや私が変人であるためでもない。極度の近視のため、裸眼では身体障害者である。まともに歩くこともできない。
 当初はコンタクトレンズで参加しようと思っていたが、直前になって、近視用の度つきの水中メガネというすごいものをホームセンターで発見して買った。使ってみたところ、コンタクトレンズよりも安定していそうなので(水中バトルでゴーグルがはずれて、コンタクトが流された状況を想像すると、身の毛もよだつ)、持ってきた。ただ悲しいことに、度つきのゴーグルは確かに安心感がある一方で、陸にいるときもつねにゴーグルをしなければならないので、かなり変人に見えてしまう欠点があった。
 後ろで運営委員の人と相談している競技者の話が聞こえた。なんでも波で水中メガネ(ゴーグル)をはじき飛ばされてしまい、なくしてしまったらしい。ゴーグルなしではこの環境では泳ぐのは難しいだろう。大会運営委員の人も困り果てていた。
 この人は、なんという幸運な人だろう! 今でもこの瞬間のことを思いだすと、私は幸福な気持ちなる。
 変人じみたゴーグルの男、つまり私は、変人じみたゴーグルの変人ぶりを懸念して、一応、その日の気分でどちらでもいけるように、もうひとつノーマルなゴーグルも持ってきていたのだ。さっそくトランジットエリアにぺたぺたと歩いていき、ノーマルゴーグルを取ってもどってきた。変人ゴーグルをつけたまま。
 ところが下で待っていた娘にゴーグルを奪われた。プリンセスは仰々しいしぐさで、困っていた男性にゴーグルを授与していた。こういういいとこは最近、ぜんぶ持っていかれてしまうんだから。
「おとーさん、今、自分の場所、間違ったでしょう」
「あ、バレた?」
「おとーさん、ぜったいやるって言ったでしょう。注意してって言ったのに」
 ワイフが、ちょっと厳しい視線で私を見た。
 じつは試し泳ぎの前に、トランジットエリアでちょっとした異変があった。ほとんどのチャリが後輪側に自分のトランジット用の荷物を置いていたが、運営側の指示で前輪側に置き換えることになり、ちょっとした混乱があった。なんのことはない。準備段階でトランジットエリアに一番乗りした私が、何も考えずなんとなくそういうふうに置いたために、連鎖的にみんなが今大会ではこれがルールなのかと思って同じようにしただけだった。そのとき、当の原因である私は、ウェットスーツにゴーグルという間抜けな姿でトイレで放尿していたため、妻子が荷物を動かしてくれた。
「これ、もどるべきレーンが変わったってことだから、よっく覚えておいてね」妻が言った。
 なるほど思いもよらなかった。単に荷物の位置が変わっただけではすまなくて、自分が使用するレーンが一列ズレることになる。つまり今まで記憶していたレーンの入口に間違えて入ってしまうと、また始点までもどって、入口を選び直してから戻る破目になる。
「おとーさん、ぜったい間違えるよ。ホント、よっく覚えておいてね」
 かなり釘を刺されたはずであったが、ゴーグルを取りに行くとき、ワイフが心配したとおりに一列間違ったレーンに入り、あれ? おかしいな、と入口まで戻って、ふたたび荷物の場所まで行き直したのだった。
 しかもワイフに指摘されるまで、事前に注意されていたことまで、すっかり忘れていたから、あきれたものである。
 スタートまで10分を切り、家族と切り離される。最後に訊いた。
「ビリでも完走してゴールに帰ってくるおとーさんと、完走できなくてもチャリでカッコよく飛ばすおとーさんと、どっちのおとーさんがいい?」
 すでに監督顔の様相を呈してきたワイフは迷わず「完走」と言った。このあたりで早くもダメぶりを発揮して逃げを打とうとしていた私は少し落胆した。やっぱり全部やるしかないようである。
(つづく)