魂を掻きたてられぬチャリ小説『走ル』

 新聞の書評で「ただ自転車で走るというだけの小説」と見て、ガクゼンとした。
 自転車でもオートバイでも自分の足でも、ただ「走る」というだけの純粋性を小説にできるとしたら、と思ってきたが、その方法が見つからないままだ。走ることの純粋性を突き詰めると、哲学か詩か、あるいは観念小説みたいなものにはなるが、どうしても「小説」のかたちになりえない。
 さて、書評では「ただ走るいうだけの小説」とあったが、実際には主人公は、まるでありえない設定で自転車に乗りはじめ、ありえない設定の体力で列島縦断をし、しかも走っているあいだ、ずっと携帯で、女と、親と、メールしている。
 これほどに「走る」ことを馬鹿にしているのは、何か深い示唆か暗喩であろうかと思い、ただそれだけを期待してこの苦痛に満ちた小説を読み通したが、最後まで何もなかった。ほんとうに何もなかった。どうせ何もないのなら、女も親もメールも出さずに、ずっと走っていればいいのになんて言ったら、だから昭和生まれは、と笑われるだろうか。
 帰路は新幹線で帰ってくることになる主人公だが、高校生なのに「運賃も八一九〇円で、思いのほか高くない」
 筆者はさすがに新幹線で帰らせることはしなかったが、その中途半端さがいけない。いっそのこと飛行機で帰らせたらよかった。それでもって主人公に「飛行機の三万円はちょっと高くついた」と言わせるとか。
 しかしこれほど掻き立てられぬ自転車小説もすごい。ある意味、すごい。いや、これが狙いなのかも。チャリマンガやアニメですぐ熱くなる馬鹿チャリダーたちに対して、冷静な視線で作者は「へへん」と言いいたいのかな。