雨の予報だった。
極地的な豪雨。栃木といえば、集中豪雨と雷のメッカ。
前々日、娘が39度を越える高熱をだし、出発も危ぶまれたが、とりあえず松戸の実家に移動して様子をみることに。
僕はレーススタート前の48時間で睡眠時間は4時間。眠れない対策として、前々夜を徹夜して睡眠圧力を高め、前夜はいっきに寝ようという盤石の作戦のつもりが、完全な失敗。
なかなか眠れないのでプレッシャーで昼からビールを飲みつづけたが、日が暮れても眠くならない。
実父と居酒屋にちょっとだけ、といって飲みにいったら、そろそろ帰ろうか、というときに、扉横のカウンター席から立ち上がってくる男あり。
「お話が聞こえまして・・もしかしてイチハラさんですか?」
五年ぶりの飲み仲間との偶然の再会であった。そのまま熱燗を、ついで、つがれての宴会モード。
けっきょく、「明日はトライアスロンでしょ!」と店主に追い出されて帰った。
それでもまだ九時。ばっちり眠れると思ったら、ビールを飲みながらパラリンピックの開会式を観てしまい、十時就寝。
午前二時起床。準備をして三時前にクルマで出発。
会場まで100km近い。高速で行くべきだったが、最短ルートがオートバイでよく通った大好きな国道294号。
思わず全行程を下道で行ってしまい、会場の井頭公園到着は受付開始の午前五時。
娘はエントリーはしたものの、やはり体調不良でスタート断念。
娘の分もがんばろうかと、バイクコースの下見をしようと思ったが、コース図もなく、コース案内表示も何もなかったので断念。
そもそも、コーススタート直後に、すごい段差がある。時速40km/hでは踏んだら、飛んでしまいそうな段差だ。通常は段差処理をしてくれるのだが、手作りの大会なのでいたしかたなし。
トランジションエリアは芝生でいい感じ・・のはずが、僕のレーンだけ芝生が完全にはげて、泥と枯れ葉、枯れ枝まみれ。通常はトランジションはマットを敷いていてくれるものだが、そんなものもない。ここを裸足で走るのはいやだな〜、と急きょ、ペダルにつけておいたシューズをはずした。時間はかかるが、シューズをはいてからチャリを押す方法をとることにした。
午前七時、一般の部130名が一周250mの周回プールをスタート。ここを三周回の750mを泳ぐ。
前列に立っていたが、いきなりバトルで打ち負けた。のっかられる、足をつかまれる、肘打ちでゴーグルがはずれる。
浅いプールで腰ぐらいまでしかないので、安心感のせいか節度がない。やられたら立ち上がって、もう一度乗り返す、みたいな修羅場がつづく超混戦。
いつもはバトルではそんなに打ち負けないのだが、立ち上げるやつのあまりの多さに面食らい(前のやつが立つと、こっちも減速するか立つしかない)、泳ぎのリズムがとれない。しかも前の男がしきりに立つ。立ってけのびして、僕の前に出る、また立つ、また前に出る・・一周回目は延々とこのくり返し。呼吸も苦しく、気持ちが悪くなってきて、あわや一周回目にしてリタイヤか、と恐怖がよぎった。
リタイヤだけは避けたいと、二週回目はひらきなおって自分も立ちまくった。やってみて気づいた。こっちの方が速い。それでみんなやっていたのか。
バトルも落ち着き、周囲の人も少なくなってからはスイムに専念できた。(あいかわらず前の男は立ちまくり作戦だったが)
三週回目はリズムを取りもどして楽になった。どこでスイムアップしていいのか、まったく分からないので、とりあえず人の後ろについていった。
スイムアップ後はトランジションエリアまでけっこうな距離がある。階段を駆け上がり、タイム計測地点を過ぎたら、階段を駆け降りていく。マットを敷いていないので、足が痛いし、タイルのところでは滑って転びそうになった。
トランジションエリアでは、待っていたワイフが「トップと2分差!」と言った。
いつもならスイムアップ後は走りながらコンタクトレンズを片方はずし、自分のバイクを確認次第、もう片方をはずすのだが、今回は目が見えないと危険なので、自分の位置についてからはずすことに。しかし、左目の方がはずれない。
ウェットスーツのボトムを足で踏んで脱ぎ捨てようとすると、落ちた滴でぬかるんだ泥で滑ってうまくいかない。ウェットスーツが落ち葉まみれ。あちゃー。
しかもここでシューズをはかねばならない。通常なら座り込んで足を拭くところだが、泥と落ち葉に怯み、立ったままやろうとしたら、また転びそう。近年参加の大会の中でも、これほどトランジットに失敗したのは初戦以来か。
バイクコースに飛びだす、や、いきなり後ろから抜かれた。
僕とまったく同じバイク。エアロへルメットにディスクホイール。まるで影武者。
スタート直後の段差で僕は減速したが、影武者はまったく怯まず突進。やるなぁ〜と思ったら、影武者のボトルがすっとんだ。
「あっ!」
と、さすがに顔に一瞬の迷いが見えたが、すぐに前を向いて漕ぎはじめた。やるなぁ〜。
バイクコースは公園内の道路と遊歩道。交通規制はなく、ランナーや、太極拳帰りの集団や、犬の散歩の人たちの横を掠めるように走る。下りでは時速60キロ近くに及ぶときもある。影武者は減速する気配なし。
バイクを持ち上げて浮き上がらせなければならない段差が、一周回につき三箇所。これがけっこう体にこたえる。
コースの最終盤は、並走が不可能なほど狭い遊歩道コーナーがつづく。影武者と同じペースで行こうとしたら、落ち葉で滑って危うくハイサイド。
二周目からは周回差となるバイクも出てきたこともあり、ほぼ徐行である。影武者は強引というか、処理がうまいので、毎回ここで離れる。
下りで徐行するので、そのあとの登りは時速20km/hぐらいまで落ちる。ゆっくりライダーがいると、追い越せないので、さらに落ちる。
周回の前半で影武者に追いつき、後半で引き離されるをくり返していたら、ロードレーサーに乗ったおっさんが並走してきた。影武者にぴったりくっついて、僕の横に並んで走る。
「ドラフティング禁止ですよ〜」
と言おうかと思ったが、交通規制なしだし、もしかしたら、ただの人なつっこい一般サイクリストかもしれない。
おもむろに、おっさんが言った。
「横に並ぶのもダメ! 抜くなら抜く。抜かないなら10m下がる!」
マーシャルであった。走る審判員、いいねコレ!
「おんなじ自転車で、おんなじ脚力で、こうなっちゃうんです。ドラフティングしてないつもりですけど、だめですか〜?」
「だめなんです。それがルールなんです! 10m下がって」
「こんぐらいですか〜?」
「だめ、もっと」
「こんぐらい?」
「もっともっと」
「ほんとですか?」
「ほんとです」
うーん、影武者の背中が小さい。
僕への教育的指導の効果に満足したのか、審判員はダンシングをはじめ、先行する影武者の横に並んだ。
そして大声で怒鳴りはじめた。
「あなたっ! ダメっ! 危ないよ。さっきのドラフティング、だめっ!」
影武者は謝っているのに、同じ言葉をくり返し、指で差しながら執拗に怒鳴りつづける審判員。
これ、僕もやってみたい。ミニ赤色灯をつけた白黒カラーのサーベロに空色のワンピーススーツ、ヘルメットには菊の紋章。ドラフティングを取り締まる走る審判員。
それとも覆面審判もいいかな。
そういえば、二周回目に影武者を抜いてみたときのことだが、終盤のマイ徐行区間に入る前に後ろを確認したのだが、ついてきてなかったので、落ち葉の危険箇所でぐ〜っと減速した。すると、
「おらっ!」と怒鳴り声。
どこから出てきたのかと、心底びっくりして背後を見るも、人の姿はなし。
ちょっとゾーッとした。
じつは何のことはない、僕が先行しているあいだ、影武者はずっと完全なドラフティングゾーンに入っていたらしく、まさに影武者!・・振り返っても見えなかったのはそのせいのようだった。
次の周回で審判員は道ばたでパンク修理していた。
さて、この厳しい注意を受けたことが影響したのかどうかは分からないが、僕の頭の中で1周回分がすっぽりと抜け落ちていたようだった。
一周4kmを5周回で20m。
並走が禁じられ、影武者とのデッドヒートができない以上、5周回目に勝負をかけ、下り後方から60km/hぐらいに加速してイッキに前に出ちゃおうと画策していた。
さあ、5周回目! 勝負っ!
と思ったら、あやや〜、影武者がラインをはずれゴールゾーンへ。
勝負から逃げたか〜、じゃなくて、周回足りてないぞ、失格になっちゃうぞ〜と思いつつ、自分自身ちょっと不安になって足が緩む。
距離計を見ると17.7km。
うわ〜、なんじゃこのチョー微妙な数値は・・。
足を止め、慣性でバイクを走らせながら、血液を脳に集中させる。
距離計が万が一、壊れていたとしても、時計は間違っていないはず。リストウォッチを見た。
速すぎる。トランジションでの失態やコースの悪条件、体調を考えても、20kmを30分切って走れるはずがない。
自信もって行け(ゆけ、と読む)ーーー! とペダルを踏みだすも、もう戻れないか、戻るべきか、などと後ろ髪。
周回を終えてバイク終了時に、距離計は20.4kmを表示。正しかった! よかった〜と思い、トランジションエリアへ。
しかし、ランへ移っている人がわらわらといる。10人以上は見えた。
なんかえらくレベルの高い大会なんだか、調子が悪いんだか、と、まだ自分を疑わない。
ランは5km。林と湿地帯を抜ける遊歩道をつないだ2.5kmのコースを二周。
階段あり、坂あり、分岐路あり、となかなか変化に富んでいる。
見晴らしがきかず、距離表示がないので、走っていると同じところをまわっているみたいな錯覚で、かなり不安になった。
結果としては10人ぐらい抜いただろうか。
ウォッチを見ると、前年度の優勝タイムに近い。
前方にひとり強そうな走りをしている人が。あれがトップに違いないと思い、死ぬ気で加速。
なかなか近づけない。じっくり距離をかけて追いつめる。
そのチームメイトらしき沿道の人が「ラスト!」と言う声が聞こえた。
距離感覚がないので、どこでスパートをしかけたらいいか判断に悩んでいたが、この声を信じてスパート。
が、自分の目論見よりゴールは100m遠かった。
100m手前で嘔吐、おえーおえーっが止まらなくなり、失速。体が傾いたままゴール前直線に入る。
同伴ゴールを待つ娘に手をのばすと、全力で追いかけてきた若者に抜かれた。
しまった・・三位か、と思っていたが、ゴールには10人以上の選手。
あれ、なんでやのん・・・???? まだ自分の間違いに気づかないのであった。
ふだんは穏和なワイフが、出来の悪い子どもを怒っているような目。妻子は応援となると恐いぐらい人格が変わる。そういえばバイクの二周回目にヒトサシ指を突き立て、「トップまで1分! いけるよーー!!」と叫んでいた。
「おとーさん、いっつもダメだから、今度はサインボードとストップウォッチを用意しなきゃね。メガホンも必須だね」
などと、ワイフと娘が相談している。
審判員に20kmを表示している距離計を示して訊いてみたが、「距離計が狂ってるんじゃないの?」
タイムで見ても35分なら20kmとして順当だし、前年の優勝タイムから見ても、今年は上位が速すぎるのではないかと訊いてみたら、何人か審判が集まってきて、真相が分かった。
「あ〜、コースね〜、去年より短かくなってんだわ」
横にいた選手のメーターを見せてもらうと、17kmちょっと。
審判のひとりが1周回分を減算する救済措置がとれないかとかけあってくれたが、けっきょく無理だった。
大会2日後、正式リザルトがホームページで発表された。
僕の戦略コーチというべきか、大会ごとにいつも冷静な分析をしてくれるつかさんが、正規周回数で換算すると総合タイムで優勝者と4秒差であることをおしえてくれた。
4秒差ということは、距離にして20m。
リザルトの詳細データと突き合わして再現できるシナリオは、トランジットエリアを3位通過したあと、ランの1周回目で二人抜き単独首位を走りゴールへ向かう。
ゴールテープにむけての花道を初優勝にむけて満面の笑顔で走る。娘は同伴ゴールを待って手を上げている。みんな笑顔だ。
すると、トランジット4位からランで唯一18分台の走りで猛然と追い上げてきた外国人選手がゴール前ストレートに燦然と現れ、まさにワイフと、娘の目の前、ゴール前20mで抜かる。
悲鳴、落胆。そしてふつふつと湧き上がるワイフの怒り。
こうなると、どっちがよかったか分からないものである。
(動画5分30秒)