乗り物の名前とは不思議なものである。
ずいぶん昔は僕も自分のオートバイに固有の名前をつけたりしていたが、今はハイエースにもオートバイにもチャリにも特に愛称はない。ただ、車名で呼ぶだけである。
多くの人がそうであろう。ひっそりと愛車に名前をつけている人はいてもおかしくないが、公然とそれをいうのはどこか恥ずかしいのでないか。
なぜだろう。
愛するとは、まず固有の名前を呼んでやることだ。それが恥ずかしいというのは、恥ずかしいことではないか。
発展途上国の場合はどうだろう? 親子がわずかな月給をこつこつと貯金し、ポンコツの輸入中古車を買うシチュエーションを考える。旧型で50万キロも走り込まれた日本製の商用車には「辰谷正吉商店」と大書きされている。親子にはこの文字が意味するところも読み方も分からない。しかし親子は満面の笑顔で、このクルマに名前をつけ、呼びかける。
「チョーンシーヤ」
日本人である僕にはその名前の意味するところは分からないが、その光景が微笑ましく美しいことは分かる。
ひるがえって現代日本。趣味性の強いオートバイにさえ固有の名前は気色わるく感じられる。
「さあマチルド・・おまえの魂の咆哮を、この夜のしじまに轟かせてくれ」
なんてひとりごちながらオートバイのキーをまわす男がいたら、微笑ましいというより、やっぱり気色わるい。わるくすれば、近隣に通報されてもおかしくない。
長距離トラックの運転手が自分のトラックにむかって、
「くろねこくん、くろねこくん・・今晩も鹿児島までしっかり頼んだよお」
なんて言ったりはしないだろう。
電車でも流山電鉄みたいに家族経営的なところだと、一編成ごとに「菜の花号」とか「流星号」と愛称がついていた事例はあるが、人身事故があった場合などに、「菜の花号は人殺しだ」とかつまらぬ流言がたって、菜の花号が忌避され引退に追い込まれるとか・・まあこれは僕の勝手な想像なんだけど。
とにかく700Nは700Nだし、「のぞみ」は愛称のようでいて、時刻表にはそれこそ列をなすほど「のぞみ」がいる。綾波レイが量産されていた悪夢のような光景を思い浮かべずにはいられない。困ったのは700Nにしたって、朝の一本と終電の一本は「こだま」に名前が変わる。量産された綾波レイだって、さすがに名前まで変わったりはしない。
分かってきたことは、先進国においては、陸上を走る乗り物に対して固有の名前をつけると、「恥ずかしいやつ」になってしまう事実である。いわんや、靴に名前をつけなどしたら、もうほとんど変態扱いであろう。
いいではないか。
というより、だから先進国は、だめなんじゃないか。
と、やや暗澹とした気分になりかかったころ、玄関のチャイムが鳴った。宅急便がわが家の新艇を運んできた。そういえば船だけは、どんな商用業務用のものでも、固有の名前がついているなと思った。
先進国においても、船だけは個別の名前がある。人間と同じように、ひとつひとつに戸籍(船籍)があるからであろうか。
とにかく、うちも憚ることなく堂々と新艇に名前をつけることができるのは喜ばしいことだ。
娘が命名した新艇の名前は「れもんいわし」号であった。
僕が昼飯にこよなく愛する「シーチキン」と「レモンいわし」の缶詰。「シーチキン」号も個人的にはかなりイケてる感じがして捨てがたいが、村上春樹が好みそうな文学的芳香のする「れもんいわし」に決まった。