台風とナブラ


 台風4号が列島に上陸した日、宵から小田原は何度もテレビニュースに実況され、遅い時間になると避難勧告も発令された。
 じつはその朝、漁に出ていた。台風が近づいているにもかかわらず、大潮の海は年に数回しかないぐらいのベタ凪ぎだった。
 深い山あいにたたずむ湖のように静かな海で、とつぜん、せせらぎを何百も集めたような音が迫り、海面が激しく飛沫を上げる。


 ナブラだ。


 青物と呼ばれるフィッシュイーターに追われたイワシの大群が、海面まで追い詰められてボイルする現象のことである。
 凪いでいれば、海面のあちこちにナブラが見られる。二つのナブラが一つに合流することもあれば、分裂することもある。イワシたちにしてみれば死にもの狂いなのだ。
 このナブラを狙っているのは青物だけではない。ここにイワシに似せたルアーを投じれば、何の躊躇もなくフィッシュイーターたちが襲いかかってくるから、ナブラは釣り人にとっても心躍る場だ。そして鳥たちも。
 波があるときなど、目でナブラが分からないときがある。そういうときは、海面に集まる鳥の群れを探す。「鳥山」と釣り師たちは呼ぶ。鳥山の下にはナブラがある。そして、ナブラのひとつでハマチを釣った。


 晩の食卓でハマチの刺身をつつきながら娘とナブラについて話をした。
「イワシにしてみればさ、毎日毎日、だれかしらに襲われつづけて、反撃もしない、策があるわけでもない・・ただ延々と逃げつづけているわけだろ。水中じゃ青物に追われ、空からは鳥」
「漁師さんもいるしね」
「ナブラなんてイワシにとってみれば地獄図絵。つくづく、イワシに生まれなくてよかった」
金子みすゞの「大漁」という詩の一節を思い浮かべる。


  浜は祭りのようだけど
  海の底では何万の
  鰮(いわし)のとむらい
  するだろう


 すると、娘が言った。
「イワシも、じつは、けっこう楽しんでるかもよ」
「え?」
「だって逃げるときだって弔いするのだって、みんなといっしょじゃん」
 そして、ちょっと大人びいた目になると、
「すくなくとも、ひとりじゃない」