「今回の米大統領選を見て実感したのは、政治家とは社会の様々な集団や人々をつなぐ、あるいは鼓舞する、ある種のストーリー(物語)をつむぎ、与える存在だということです」
(渡辺靖・慶大教授)
多分に政治家は作家的なセンスも必要なわけだが、しかし、まんま作家が政治家では困る。政治は小説とちがって一人で書くものではない。そういう意味では作家は独裁者にはむいているかもしれない。
そうやって成長した若者たちは地元に残り、地元の祭りの担い手となり、『絆』を重んじるヤンキー的な保守として成熟し、うまくすれば地域の顔役になったり地方議員になったりする。要するに、不良になりそうな連中がソーラン節や祭りによって保守にロンダリングされるのです。
(斎藤環・精神科医)
地方自民党はヤンキーだったのか? ヤンキーがロンダリングされて「顔」になる。
生活は段階的にしか変えられない。数年ですべてが変わる改革などありえない。明治維新の政治家も実際の政策で微修正を繰り返し、二歩前進一歩後退で漸進させていった。それが改革の本領でしょう。
(宮地正人・東大名誉教授)
3年や4年でガマンできないようでは、この国の国民は「改革」を見ることはできないだろう。
たとえば米国は人口3億に対し基礎自治体が8万以上あります。行政のサービスが不足なら、住民が特別区も作れる。小さな単位に決定権と責任があり、中身のあるタウンミーティングや公聴会もあるから政治が近いのです。そういう『参加』の仕組みは、多くの先進国が作っています。
(小熊英二)
自治会長はけっこう自治している感があるが、「自治体」となると、ぜんぜん自治していない。
国民全体がある種の決断主義に陥っていることです。政策の良しあしよりも、決断や実行ができるかの方が重要になってしまった。『決断した』イコール『圧力に屈しなかった』『いろいろな意見をはね返した』というわけです。マッチョであること自体が評価されるようになってしまいました。
(湯浅誠)
コイズミさん人気のあたりから、その風潮強し。決められないことって、じつは多様で豊かであることに他ならないのに。
「右翼というのは社会の少数派として存在するから意味があるのであって、全体がそうなってしまうのはまずい。国家が思想を持つとロクなことにならないんですよ。必ず押し付けが始まりますから」
(鈴木邦男・一水会顧問)
一水会は伝統ある右翼である。その顧問がそう言うのである。
今、日本で台頭している右翼っぽい感じの人たちは、右翼っぽい感じなだけなのである。小林よしのりさんでさえ、今の日本で右翼をやるとしたらリベラルになる、と言っている。右翼はまず身近な隣人を愛し、遠くの隣人も身近な隣人と同じように尊重する人たちである。右翼はマッチョなイメージとは裏腹に、じつに家庭的なのである。
もはや日本経済にソフトランディング(軟着陸)はない。リセットして若者世代に渡すしかない。
(藤巻健史・伝説のトレーダー)
日本の経済は、原発を即時停止するぐらいのハードランディングが必要だとすれば、なんとも逆説的な話である。
「クレオールの思想は水平につながっていく。むしろ反対の概念がグローバル化。大国が自分の大システムを世界に押しつける。その暴力性に人間の自由な知恵としてのクレオールを対置してゆきたい」
(大江健三郎)
クレオールとは中南米の島々で生活するスペイン系の子孫。歴史の経緯から、しぜんと自己の内部に他者性を介在させ、多様性をみとめる。グローバル化の反対は鎖国かと思っていたが、じつはグローバル化と鎖国とは根っこの思想は同じなのだと気かされた。