獣は北へ(8) ゼファーを身売りする

cippillo2005-07-14

 ワイフの愛車ゼファー750*1を売ってきた。
 娘のひとりを身売りしたような気持ちだった。いくばくかの現金のためにこんなことをするんじゃないと自分に言い聞かせようとしたが、やっぱり金のためだった。西漸運動を進めるためには身軽になる必要もあるし、資金も必要だった。
 うちに住む4機のオートバイのうち、次女にあたるゼファーは、いちばんまともなやつだった。雨の日も、荷物運びも、娘の送り迎えも、いつも地味な仕事をこなすのはこいつだった。他の3機はすべてシングルシート(一人乗り専用)。華美で金食いだが、実用的にはまったく役に立たないやつらばかり。
 ワイフがゼファー750を自分で選んで買って帰ってきたときには、俺は横目で、つまんねえオートバイぐらいにしか思ってなかった。3年たって俺は心底、このオートバイを好きになっていた。主張は少ないが、曲がる、止まる、といった基本をしっかり満足させてくれ、飽きがこない。空冷のエンジンフィーリングも、静粛でいて、耳を澄ませば、ごりごりというオートバイらしい味わいがあった。乗れば乗るほど何か発見があったし、どんな風景にもよく馴染んだ。1機しか残せないとしたらこいつだろうと本気でワイフにも相談するようにまでなっていたのだが。・・けっきょく最後まで孝行なやつだった。
 帰り途、俺は電車に乗る気にもならずにヘルメットを持ったまま歩いていた。ほんとうにここまでする価値があったのか、くよくよ考えていると無性にせつなさがこみ上げてくる。ゼファーに乗るワイフと西国に行ったときのことを思いだした。つんと鼻に刺さる吉野杉の匂いが蘇った。
 このときの旅*2は、関東生れ関東育ちのワイフが、西国の魅力に目覚めるきっかけだった。吉野山中の黒々とした杉林を縫って走り、日が落ちれば風の音に神々が息づいているのを感じた。
「関東の山に神さまはもう住んでないのかもね」
「住みにくくて、あきれて帰っちゃったんだ」
「なんで西は住みやすいのかな」
「きっとさ、1000年たっても人がちゃんと神さまを怖れてるからだろう」
 夜の闇よりも黒く濃い森の存在感に背筋をぞくぞくした。
「でも、西の方がへんな事件が多いよね」
「いい神さまが住みやすいってことは、悪い神さまも住みやすいってことじゃないかな」
「こうやってじっと見てると、天狗ってぜったいいるって気になってくる。天狗って神さまなの?」
「だろうね」
「いい方? 悪い方?」
「どっちもだね」
 ふうんと彼女は言ってちょっと身じろぎした。
「そんなもんなの?」
「そんなもんだよ」
 数年後になって、西へ移住するきっかけになるとは想像しなかった。俺たちを誘ったのは、いい方だったのか悪い方だったのか。
 俺はやっぱり無性に悲しくなってしまって、ヘルメットを持ったまま駆けだした。ときどき右と左と持ちかえながら、ずっとずっと走った。国道を越え、坂を越え、駅を越え、自分の家を越え、べしゃべしゃに汗まみれで坂川の橋まで来ていた。
 走るというのは、祈りに似ている。怒り、悲しみ、それらをぶつけて俺はいつも走ってきた。走ってどうになるわけでもないと分かっていても、やっぱり走る。だから祈りだ。俺はアスリートになりたいわけではないし、スポーツマンでもない。ただ、祈る。
 ザックに手を突っ込んで、ゼファーを売った金をリュックの中でつかんだ。川に投げてみたい気がちょっとしたが、ザックの中でじっと握っていた。これは俺の決意だ。北への旅にこの金は使う。ほんとはワイフの金だが、異論はないだろう。彼女もすでに渦中にある。金を使いきり、北国からもどったら、残るは後にはひかぬ決意。
 住み慣れたこの地と離別し、西へ駒を進める。小田原。
 

*1:ゼファー750・・Kawasaki社製オートバイ。ナナハンのクラシックスタイルの復活ブームの牽引役となった名車。同社製のオートバイとしては1989年のデビューから2005年現在に至るまで、基本スタイルと性能を変更しないまま現行機種でありつづけるロングセラーとなっている。レポートは「市原家歴代バイク目録・バイクベース」参照

*2:このときの旅・・バトルツアー・データベース『吉野杉に沈む行者のメッカ』のこと。