しぇいしぇいしぇいが聞きたくて

cippillo2005-09-02

 小田原に移民したといっても、仕事はある。家事もある。
 小田原移民から2週間がたとうとするが、自転車、オートバイで箱根伊豆方面に行くわけでもなく、ただ、日常生活確立のための奔走と、業務環境の構築にかかりっきり。別荘ライフで小田原に来ているわけではないのだから、当然といえば当然だが、街道筋という場所がら上、平日から自転車やオートバイで箱根越えに向かうもののふが多くて、見るたびに臍(ほぞ)を噛む。天気がいいと余計にくやしい。
 昼飯はマラソンで1kmほどのところにある早川口のラーメン屋、味一に。いつも行列ができているので気になっていた店だ。6人から10人がつねに店の前でならんでいるが、この日も6人待ち。20分ほどで店に入れた。
「しぇいしぇいしぇい、しぇーい」
 すわる隙間もないほどの調理場に立つオヤジが言った。漁師を引退したバルタン星人みたいな声だ。いらっしゃいませが長年の風雪に耐えるうちに、しぇいしぇいしぇいになったのだろう。客席はカウンター8席のみ。クーラーはなし。となりのサラリーマンふたりが席を立ち、勘定を済ますと、
「してぃしてぃしてぃ、してぃー。してぃしてぃしてぃ、してぃー」と、ひとりひとりに言うオヤジ。ありがとうございましたの語尾を連続させて、してぃしてぃしてぃーに進化。長い歳月を感じた。
 入れ替わりに、カップルが一組が店に入ってくると、
「しぇいしぇいしぇい、しぇーい。しぇいしぇいしぇい、しぇーい」
 と、またひとりひとりに言う。
 メニューは壁に貼ってあるが、じつに大雑把。メンマもやしラーメン、メンマラーメン、塩大盛りラーメン、チャーシューメンなど6種類程度。塩ラーメンは大盛りじゃなきゃいけないのだろうか? メンマラーメンは大盛りにしちゃいけないだろうか? メニューにないものを言ってみた。メンマもやしチャーシュー大盛り。
 オヤジは戸惑うでもなく、さらさらとメモ帳に書く。どうやら受け入れられたようだ。マドカはあいかわらず味噌ラーメン。これもメニューにはないが受け入れられたらしい。
 調理場がせますぎて、オヤジは四人分のラーメンをつくるために、カウンターの台、俺たちの目の前にどんぶりを並べはじめた。白い粉を小さじで入れる。洗練された動きはなく、試し試しといった感じ。次にしょうゆさしに入れた褐色の液体をちゅるる〜っと入れた。こんなラーメンのつくり方は初めて見る。動きは遅く、前の客がラーメンを食べ終えたあとになって、ようやく俺たちのラーメンができた。行列ができるわけだ。単に回転効率が悪いのだ。でも、このオヤジ、なぜかものすごく魅力がある。
 味は漁港のラーメンらしく魚のダシがきいて、さっぱり風味。上に浮いている脂は魚油か? マドカは気に入ったようだ。俺たちのあとにツウっぽい単独者がふたり入ってきて、ともに味噌ラーメンを注文。ひとりは、にんにく入れてね、と言った。マドカが味噌ラーメンを頼んだのはアタリだったようだ。勘定を済まし、出るときには全身汗だく。
「してぃしてぃしてぃ、してぃー」
 オヤジの舟唄のような声に送り出された。
「どうだった?」
「うん。おいしかった」
「おとーさんは、まあまあかな。でも、これはおもしろかったね」
 俺は、しぇいしぇいしぇい、しぇーい、とオヤジの真似をした。
「してぃしてぃしてぃ、してぃー」
「しぇいしぇいの方が似てる」
「うん。なんかコツが分かってきた」
 帰りみちに肉屋で量り売りの鳥モモ肉を買い、ふたりでラムネを飲んだ。歩きながら、ずっと、しぇいしぇいしぇいを言いつづけた。なんかこれを聞きたくて、またあの店に行ってみたくなった。