自罰と随喜のあわいに紫煙あり。打ち所ヨシ。

cippillo2005-12-22

 救急車で運ばれてから1週間、まったく煙草を吸っていない。
 これまで特に禁断症状もなかったのは顔面左半分の麻痺のせいのようだ。痺れは残るものの、頭痛が晴れて気力がもどってくると、ときどき吸いたくなるようになってきた。しかし何か自分のことを罰したいような残酷な気持ちもどこかにあって、胸がぐりぐりと苦しくなってくると、苦しめ苦しめ、いひひひひと肺をかきむしって引きちぎりたいような妙な快楽がある。
 オートバイに乗り、真鶴のひとけのない小さな断崖に行った。
 季節風が吹き荒れ、なかなか荒涼としたよい気分だった。ここでオートバイが下に転がったら海に落ちちゃうなあ、でもこういうキワどいシチュエーションが写真に緊張感を与えるんだよなあなんて思ってファインダーをのぞいていると、ひときわ強い風にあおられて足を踏ん張りつつ耐えていると、なんかオートバイが動いた気がした。目の錯覚にしたいものです、と思った刹那、巨体がどうと倒れた。写真を撮りながら想像したみたいに海に転落はしていかなかったが、ガードレールの終端に直撃。
 旧車だし終わったなあと思ってしばらくぼんやり眺めていたが、反対側にまわってみると、ガードレールに引っかかって完全には倒れていない。オートバイの全車重をアルミタンクの一点で支えるようにガードレールのめくれにもたれかかっている。ますますダメだこれはと思いつつ起こしてみると、驚いたことにタンク以外は何事もなかったかのように無事である。タンクは取り皿ぐらいの陥没ができて、べっこり塗装がクレーターのように剥離しているが、場所が股ではさみこむ部分なので大きめのタンクパッドを貼れば消えるかもしれない。
 まさに、打ち所がよかったのである。
 じつはこのところ、打ち所について考察することが多かった。先日、打ち所ひとつの差で現世に帰還したばかりであった。突如意識をなくしたした人間にとっては、再び目覚めるか、もう永遠に目覚めないかは、まったく差がない。同列なのである。目を覚ますこと、つまり生きていたことが意味を持つのは、覚醒してしばらく経ってからである。目覚めなかった者には、生か死か(あるいは不随か失明か)のクジを引いたことさえ知らされない。
 だから失神から覚醒するときの感覚は、「還ってきた」という実感の有無において、ふつうの眠りからの目覚めとは明確に一線を画するものなのである。
 やっぱり打ち所だよなぁ、と慨嘆しながら、懐を探るが煙草がない。別に禁煙を決め込んでいるわけではないし、こんな潮風吹きすさぶ断崖絶壁でひとり慨嘆するのに、煙草ほどぴったりの友があろうか。背に腹は替えられぬ。なんぴとかの吸い殻でも落ちていないか地面を徘徊したが、ない。ウエストポーチをまさぐると、ガソリンのレシートが手に触れた。こよりをつくるみたいに筒状にまるめて唇にくわえたが、今度は火がない。面倒くさくなってやめた。
 真鶴から湯河原へ抜け、オレンジラインと椿ラインでいっきに山を駆けのぼった。20年ぶりの記録的な大雪で全国ががたぴしのときにこのような山を上るのは愚かなことであったが、煙草で浄化されえなかった随喜の念が、立ちのぼる煙のようにオートバイを上昇させたのだった。
 山の上は雪もよいのあやしい雲行きで、凍結した路面が黒々と雲を映しこんでいた。オートバイはおろかクルマもほとんどいない。
 あたりに五分咲きの桜のような木々が見えた。細かい花びらが風にのって散り降る。よく見ると樹氷であった。氷結した結晶が風に掃き出されて、花弁のように散るのだった。
 手足は先端から痺れていくが随喜の情動は止まらず、芦ノ湖を突貫し、箱根旧街道を経由して下山した。