文士的高踏を捨て、自動車教習所視察

 これまでの俺は長らく文士的高踏に甘たれて身をゆだねてきた。
 クルマの運転などは運転手にやらせておけばよろしい。この時代、免許はみんな持っているし、取引先の社長であれども絶佳の美女であれども、俺の前ではみな運転手である。というのも免許を持っていないというのはまことに高踏的な立場で、たとえば相手が合衆国大統領であっても俺とふたりになるや「ぼく、免許もってないんで」のひとことで運転手になってもらうことができたのである。
 なんてのほほんとしていたのだが、偏屈文士ならばそんな高踏さも愛嬌で許されるところもあるのだが、これが革命家となるとそうはいかない。
 ヴ・ナロード! 人民とともに、であり、世界愛への奉仕者であり闘士なんであるから、トラックのひとつふたつ運転できないと、ぜんぜんだめではないですか。
 革命家として生きるには、まずもって偏屈偏狭を叩き直す必要があると強く感じた先日のできごとについて。

●たまごっちが肉体を滅ぼす
 たまごっちブーム再燃も三度目ぐらいだろうか。先日の学童保育所の集まりで親、子ども20人ばかりと酒席をもうけたとき、どの子もたまごっちにうち興じ、親たちもたまごっちの話題に白熱していた。中にあって俺はひとり高踏的に薄ら笑いを浮かべ端然としていると、あやや、わが娘もかたわらでいつの間に略奪してきたのか巻き寿司など喰いながら、ひとり高踏的に薄ら笑いを浮かべているではありませんか。俺は諭しました。
「餓鬼は餓鬼らしく餓鬼と遊んできんしゃい」
「だって、たまごっち持ってないんだもん」
 すると母親たちの視線がこちらに集まり、ぜひともたまごっちを与えるよう諭された。やっぱそうですよねー、そうします、と回答。それはほんとうにそう思ったからで、別に市原家において人民的な遊具娯楽を禁止しているわけではなくて、単に俺自身がたまごっちに朝から晩まで、そして晩から朝までドハマりにハマってしまう可能性の高さを危惧していただけなのである。
 前例が何度かあって、ドラクエのために高校3年の課程の3分の1を欠席し、肉体の限界に挑む無着陸連続操業のために口の中に最大6個の口内炎を患った。形を変えながら、大学時代も一度二度はそうなって、ほんとにゲエムをやりだすと延々とやめられないし、金はかからないし、もうこのまま一生これでいいんじゃないかという退廃的な気持ちに支配され、連日連夜、自らの肉体が朽ち果てるまでやめることができない。以来、テレビ、ゲエム類はすべて封じた。
 しかし娘が生まれてからも、一度だけ、このぐらいならだいじょうぶだろうと思ってはじめたソリティア(パソコンに最初からついている単純なトランプゲーム。何かの拍子に発見してしまったのだ)によってまるまる1週間を無駄にした。よく飽きないねえ、というより、眠らないでやりつづけてしんどくない? と首をかしげる健常者のワイフには到底理解できないだろうが、俺にとってゲエム、テレビの類はそのぐらい中毒性の高い麻薬なのである。
「たまごっちなんて子どもっぽいし、ほしくない」
 と娘に言われたときには、その屈折した大人ぶり(子どもっぽいって、お前は子どもじゃないか!)に驚愕した。父親が偏屈偏狭ならば小学二年にして娘まで偏屈偏狭。これはいかんと思い、
「たまごっちいいと思うなあ。おとーさん、ほしいんだけどなあ」
「じゃ、おとーさん買えば」
 ぬぐぐ。

●飛行機に乗れない
 高踏の法衣を捨てて生きていくというのは、俺にとって皇国天皇の人間宣言みたいなものだ。しかし今こそ高踏的偏屈偏狭を矯正しようと思う。
・クルマを運転できない(免許がない)
・飛行機に乗れない
 このふたつはたいていの人が眉をひそめる。
「イチハラってどんなやつだっけ?」
「あのクルマに乗れない飛行機に乗れないの偏屈な男」
「ああ、あいつね、あの偏狭な男ね」
 といった会話は実際、取引先のあいだで交わされているそうである。先日までは、20年来の千葉県民でありながらディズニーランドに行ったことがないというのも偏狭偏屈項目の上位に入っていたが、これは娘と行って解消。このときほどつまらなさそうな娘の表情ははじめて見た。
 革命家ならば飛行機に乗れないのはよろしくないが、飛行機は人民船どころか、窓が開かない起居もできない、で、まったくもって奴隷船である。ファストクラスならばよさそうだが、金がないし、第一、国内線にはファストクラスはないと聞いた。
 しかし、今はもう、ヴ・ナロード! 人民の中へ! であるから、奴隷船を忌諱するファストクラス的な高踏高慢を捨てよう。でもやっぱり飛行機だけは、どうも人間としてやってはいかんのではないか、人間は空を飛んではいかんのではないか、いくらなんでもやりすぎなんではないか、という気がして、神が鳥だけに許した大空を爆音を上げて大手を振って飛ぶあの傲慢な姿、その傲慢さと裏腹にあのちっぽけな金属筒の中に何百人という人民が肩を寄せひしめきあっているのだと思うと、大地にいながら悲愴な思いにとらわれてやまないのである。
 先日抜いたばかりの小指の頭ほどもある親知らずの歯に軽くキスをする。
 神さま、この問題についてはいつかお導きください。
 
●やりやすい方から
 飛行機の方はとりあえず神さんに委任しておくとして、まず取り組むべきはクルマの方である。
 行動こそ革命家の身上、さっそく自動車教習所に高踏的ドカティで視察に行ってきた。大型オートバイやスクーターがわらわら走っているのが目に入った。15年前に教習所に通ったときはどちらもなかった。時代の流れを感じた。しかも、スクーターやらで教習しているのはほへらほへらの男たちで、大型オートバイをぶわんぶわんやっているのは3人が3人ともうら若き乙女たちだった。時代の流れを感じた。
 ちょちょい待ち、高踏的貴族的なオートバイなど眺めている場合ではないのでした。人民の四輪車に目を向けると、ほわりほわり走っていて、じつに牧歌的な光景。しかし同時に巨大な恐怖が俺を襲う。告白します。
 高踏的貴族的なオートバイ一本でこれまでやってきたのは、じつは高踏的な理由だけではなくて、一番の要因は断固としてクルマが恐い。ほんとうに恐い。
 くり返しみる悪夢の筆頭が、クルマを運転している夢である。夢の中でいつも俺は無免許運転で、どきどきして汗びっしょりである。いくどかの試練を越え、最後は必ずどかんクラッシュ。いつもきまってアクセルとブレーキがどちらか迷って混乱するのだ。知らない女に誘惑されて早漏、というのもしばしばみる悪夢のひとつだが、これはパンツが汚れることをのぞけばある種の甘美さがある分、クルマの夢より精神的なダメージは小さい。
 バックの恐怖というのもある。後ろ向きに進むということをやったことがないだけに、どうしてもバックが恐い。ゴールドウィングという1800CCのオートバイにはバックギヤがついていて、使ってみたらいきなり駐車場のパイロンをなぎ倒した。バックは鬼門。
 じっとしていられないので渋滞が恐い。交通強者になって人を傷つけるのが恐い。オートバイは馬の延長みたいなイメージだからいいが、クルマは昔見たアニメのロボットみたいに人間が内部に乗り込むというイメージが恐い。
 ほわりほわりと進む教習所のクルマを見ているうちに、さまざまな恐怖と面倒くささにうち砕かれそうになった。中型二輪教習のときも卒業検定で放擲逃亡、一年後にゼロから再教習。限定解除のときも、事前審査に2回落ちて放擲、一年後に再度チャレンジで一発合格・・つまり過去は悪例ばかりだ。放擲せずほんとにクルマに乗れるようになるのか。夢にまでみる恐怖を克服できるのか。
 ヴ・ナロード!
 ポケットからお守りの親知らずの歯を取りだし、そっとキスした。
 ちょっと勇気がわいた。人肉喰ってスーパー戦士になったんだし、と自分に言い聞かせながら世界への愛を思った。俺は人民のために、このほわりほわりと動く四つタイヤに乗るのだ。親知らずにキス。
 視察の予定が、勢いあまって入校手続きをしてしまった。入校式と一限目の実技教習は明日である。