『いい子は家で』青木淳悟

「靴がないことで出かけたと知る」
 というのは断ってから外出しないことへの当てつけである。彼はたまにそういう行動を取る。遊びに行くのに「いってらっしゃい」と送り出されるのはどこか心苦しいからだ。
(『いい子は家で』青木淳悟


『四十日と四十夜のメルヘン』で新潮新人賞と、野間文芸新人賞を受賞した若手作家の作品である。新聞の書評で興味を持ったが、どこに興味を持ったのか、書評の内容を忘れてしまって思い出せない。小説は難解。
 主人公の若い男と家族との関係が描かれているが、難解。
 最初は母との関係が「靴」を軸に描かれる。次は兄とゲーム。最後に父と煙草。難解。
 だれかこの小説についておしえて。
 ヘルプミー、新潮のちゅーさん!


いい子は家で

いい子は家で

『ひとり日和』青山七恵

「吟子さん、外の世界って、厳しいんだろうね。あたしなんか、すぐ落ちこぼれちゃうんだろうね」
「世界に外も中もないのよ。この世は一つしかないでしょ」
 吟子さんは、きっぱりと言った。
青山七恵『ひとり日和』)

 歳は離れていても女同士だ。敵対心や連帯感が混じり合ったところで、わたしたちの視線はぶつかる。


 2007年前期の芥川賞受賞作。作者は現在も旅行会社に勤務。
 20歳のフリーター女性の自立の一年を描く。彼女は「売り物を盗むような勇気はなく、たいてい周りの人の持っているちょっとしたものを狙ってコレクションに加えていくことが、幼いながら快感だった」というちょっと変わった盗癖の持ち主。

 そして今でも、そのくせがときどき出てしまう。
 収集したがらくたたちは空の靴箱に入れてとっておく。今、部屋の押入れの奥にはそのたぐいの靴箱が三つ入っている。
 折に触れて、わたしはその箱を見返してみて懐かしさにひたった。そして、かつての持ち主と自分との関係を思い出して、切なくなったりひとり笑いをしたりする。その中の何かを手に取っていると、なんとなく安心するのだった。
 そして、ひととおり思い出を楽しんだあとには、こそ泥、意気地なし、せせこましい、などと自分をののしり自己嫌悪に陥ってみる。そのたびに一皮厚くなっていく気がする。
 誰に何を言われようが、動じない自分でありたいのだ。
 これはそのための練習なんだと、靴箱のふたを閉めながら言い聞かせていた。


 父不在の家庭。母は仕事に恋に、女をエネルギッシュに生きている。(が、どこか疲れていると娘は見ている)
 行き場もなく、吟子さんという遠縁の親戚で東京でひとり暮らししている老婆のもとに身を寄せる。ちょっと変わったおばさんと、心を閉ざした少女との交感という構図は、芥川賞受賞作『ネコババのいる町で』と同じ。
 ただ2007年の『ひとり日和』の主人公の方が、はるかにあっけらかんと闇が深い。
 若干20歳のフリーターである若い女の、乾いた複雑さにそら恐ろしくなる。同年代の学生男子などは、なんともシンプルでかわいい。


浸透圧に冒された昼

天井に水面が映り水の夢
 浸透圧に冒された昼
小島なお『乱反射』)

 新聞でたまたま知った詩人。その表現に唸った。冒頭の引用は、17歳の女子高生のときの詩である。
 20歳、大学生にして初歌集を出した。

噴水に乱反射する光あり
 性愛をまだ知らぬわたし
小島なお『乱反射』)

歌集 乱反射

歌集 乱反射

『風が強く吹いている』三浦しをん

「長距離選手に対する、一番の褒め言葉がなにかわかるか」
「速い、ですか?」
「いいや。『強い』だよ」


 タイトルが素晴らしい。直木賞作家三浦しをん箱根駅伝を題材に書いた長編小説。
 駅伝に関してはまったく無名の大学の、陸上経験者でもない学生を含む寄せ集めチームが、半年間の特訓で箱根駅伝に出るという無理のあるストーリーだが、かなりしっかり取材して書いているので、ふつうの人間が箱根駅伝に出るためには、いったいどれだけのことをしなければならないのかが分かる。屈折した天才と、ふつうの人々の混成チーム。
 選ばれた天才だけを描くふつうのスポ根モノとは一線を画す。


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『Water』吉田修一

 スタート台から眺めるプールの景色は絶品だ。風が作る小さな波に太陽が反射している。ボクはプールが好きだ。たぶん海よりも好きだ。プールには海が持っているような獰猛なモラルだとか、荒々しい情操がない。一言で言ってしまえば、プールは男らしくない。そして何より押しつけがましくないのだ。清潔で、淡泊で、そして危険のないプールがボクには合っているように思う。
吉田修一『Water』)


 高校水泳部の男子部長が主人公のスポーツ青春小説。作者が芥川賞をとる前の作品。
 友情、淡い恋心、家族、身近な者の死、といった青春エッセンスが、インターハイをめざす四人の少年たちを軸に織り込まれている。
 主人公の兄の雄大(天才を感じさせる人物造形)は、オートバイ事故で死んでいる。母はその死を乗り越えられず精神を病み、息子が死んだことを認めようとしない。兄は主人公にとっても、水泳のお手本的存在である。皆が皆、自分の生のなかで乗り越えていかなければならないものを持っている。

母の様子がおかしいと判ったとき、親父は言った。
「女の悲しみ方と男の悲しみ方は違う。お母さんが雄大の分まで晩飯を作ったら、お前が喰ってやれ。何も言わずにお前が二人分喰ってやれ」
吉田修一『Water』)


下記の本所収。


『最後の息子』吉田修一

 佐和子とは一年以上付き合っていたのだが、彼女と一緒にいて居心地の良さを感じることは、結局最後までなかった。
 彼女はいつも何かを追いかけていた。具体的に何を追いかけていたのかは知らないが、とにかくいつも次へ次へ、上へ上へと目を向けていた。
「俺がエンストした車だとしたら、彼女はブレーキが壊れた車だったんだよ」
 そう説明してやると、
「止まらない車よりは、動かない車の方が安心できるわ」
 と、閻魔ちゃんは笑っていた。


 文学界新人賞受賞作。同時に芥川賞候補にもなる。
 高級オカマ「閻魔ちゃん」と同棲している若い男の話。
 回想シーンへの導入として頻繁に引用が使用されるが、引用される媒体はテクストではなく、ビデオの映像である。
 男は、閻魔ちゃんの収入に頼って生きている自分の自信のなさに対して過敏になる。

 ウェイターに無視された自分が、というよりも、ウェイターに無視された男を恋人に持っている閻魔ちゃんが、ひどく惨めな存在に思えた。


 愛を確かめたくて悪さをする。

 それとまったく同じ理由で、僕は頻繁に、閻魔ちゃんの財布から金を盗む。盗むといっても、レンタルビデオの延滞料程度のものだが、もちろん悪気はある。愛されようとするのは、救いようのない悪気だと思う。


 田舎から家出をしてきた実母が男のもとを訪ねようとする。閻魔ちゃんと同棲していることは、もちろん言っていない。このどたばたの中で、今までの日常が位相をみせはじめ、それは閻魔ちゃんと男との関係にも及んでいく。


『八月の路上に捨てる』伊藤たかみ

「あんたみたいなのは三十過ぎてから干上がるよ。包容力ないから。やっぱり大人はそこだわ」


 2006年芥川賞受賞作。作者の妻は直木賞作家の角田光代角田光代も直木賞をとるまえは、何度も芥川賞候補になったように記憶している。
 20代のフリーターの既婚男性の一日を描く。職種は缶ジュースの自動販売機の補充のアルバイト。おもしろい設定だ。
 回想として挟まれる話は、妻との離婚のいきさつである。妻は憧れの編集者の職についていたのだが、人間関係がもとで仕事を辞めてしまい、やや精神も病んでしまう。妻の収入がなくなったので、もともと脚本家を志望していた男は、生活のために夢をいったん路上に捨てる。

 アルバイトに疲れてアパートに戻ってくると、知恵子が台所のテーブルに座っていた。ヘッドフォンを片耳にかけ、レコーダーに話しかけている。何をしているのかと訊くと、きらりと笑った。アナウンスの勉強を始めたのだとか。学生時代、彼女が放送研究部にいたことは敦も知っている。しかしなぜ今になって、青春の一ページをめくり直そうというのかはわからなかった。通信制のアナウンス講座一式を頼んだらしく、アクセント辞典やレコーダー、ヘッドフォンだのマイクだの、まとめて二十万近い出費がいったらしい。家でごろごろしているだけだとあっちゃんに嫌われてしまうから、私も生き甲斐みたいなの見つけようと思ってさ。知恵子はそう説明した。
 不気味に感じたのだ。まさかつきあい始めの頃にやっていたゲームをまだ続けているのか。何か特別なことでもしていないと順位が下がるというのか。自分たちは二十代も半ばを過ぎている。夢なんて大久保の排水溝に落っことした。新宿の路上で汗と一緒に流してしまった。それでもその先には、案外、まっとうな幸せがあるような気もしている。


 日本で騒がれはじめた「格差社会」なるものを確かにとらえた作品として注目された。が、僕にはどうもそういう作品のようには思えない。ここにある貧困は、食うに事欠くような深刻な貧困ではない。夢も妻も八月の路上に捨ててしまうにしては、あまりに若すぎて不気味ささえ感じる。

しかし何より難しいのは、運ぶときのバランスだ。完全に調和が取れてしまうと、前に進まない。推進力を得るためには、均衡を破る必要がある。それはどこか、男と女の関係のようだった。


 主人公は妻とうまくいかなくなって、なんとなく知りあった美容師と関係するようになる。しかし離婚が成立すると、美容師とも別れてしまう。

「無様なの、いいじゃん。そんな綺麗に浮気できないもん」
 水城さんは言った。「よくさあ、気づかれないでやる浮気はいいとか言う人いるでしょ。最後に戻ってきてくれればいいって。だけどあれ間違ってるよね。男と女でしょ、本気になったらみんな無様になるって。修羅場にもなる」
 うちの親なんか、今はそれで上手く収まっているんですが。敦はそう言った。母の逃避行以来、不倫だとか逃避行だとか、はたまた長崎という言葉でさえあまり使わないようにしてきた。突然テレビに映った女の裸のように、家族みんなでなかったことにしたのだ。それでどうにかやっている。今まで離婚せずに家族を続けていた。
 すると水城さんが、そんなのは違うと一刀両断にした。彼らは上手く収まっているのではなくて、互いに嫌な状態に慣れてしまっただけだと。
「まあ、あたしもいい歳だから堅いこと言うつもりはないよ。何もなかったことにするのもいいし、結婚生活と不倫とを両立させてもいいだろうし、色々あるのはわかってる。でもそれって、何だか寂しくない?」
「だったら冷静なダブル不倫とかにしておけばよかったかな。知恵子にも愛人を作ってもらって」
 本気じゃないだろ、と水城さんが言った。凄みがあったのでつい、極論ですよと言い訳をしてしまう。しばらくして彼女は、ダブル不倫ってのはあたしの言う浮気に入ってないんだよなあ、と意味ありげなことをつぶやくのだった。
「何て言うのかな。両方割り切ってやってるのは、セックスつきのお茶飲み友達みたいなもんでさ。セックスって言うから変だけど、そう、乾布摩擦の濡れてるようなもんじゃん。それで心が繋がって満足なら、まあいいんだよ」
「まったくわからないです」
「だから互いに欲しいのは、心までってことでしょう」
 あたしが言ってるのは、心のもっと先が欲しくなるときのこと。水城さんは言うのだが、敦にはなおさら真意がわからなくなった。第一、心の先になんて何があるというのだ。率直に訊いたが、答は戻ってこなかった。心の先って言ったら命ぐらいしかないですねとおちょくってみたら、水城さんは意外にも、「あー、そーかもなー」と同意した。