騎馬民族と高速道路二輪車ふたり乗り解禁

 4月1日に35歳になった。いよいよ来たか、という感じである。
 34歳は、なんとなく無理をすれば、まだ若い感もあるのだが、35歳は言い訳なし待ったなしの中年。
 Oi、俺も中年だよ。まだクルマの免許も家も持ってないのに中年になってしまった。やはりクルマと家を持ってこそ「オトナ」である。持ってないからまだ青春なのだわなんて言ってたわけだけど、同世代がどんどんオトナになっていく中で、35歳にもなれば、ただのヘンな中年でしかない。
 これはいかん。俺も一刻も早くオトナにならねばと思うのだが、この1年で増えたのは原付オートバイ一台と自転車一台。
 Oi! 家どころかクルマどころか、加速度的に事態は悪くなっている。早く家持ち、クルマ持ちにになり、いっぱしのオトナにならなければと思うものの、原付オートバイと自転車で散財、借財。
 このままじゃいけんのですわ。ほんとに。
 ということで、いっぱしにクルマと家を手に入れるためにはいったい何をせねばならないのかと考えてみるに、まず、同世代の男たちは、皆もって「金がない」と言う。これはたいへん不思議なことで、ボヘミアンとして生まれてより各地を転々とし赤貧、その後も浪費につぐ浪費で子どもの給食代にも事欠くスリリングな毎日にあっては、金がないというのはあまりに当たり前すぎて、口にすることもないからである。世事に明るい細君によれば、それはけっして収入がないという意味ではなく、ひとえにオトナとして家とクルマを得たゆえに、かなり長期にわたってキャッシめぐりが悪化していることに起因するということであった。なるほど一理あるが、家とかクルマと違って、自転車とか原付オートバイに散財した場合は、それがために無一物になっても「金がない」という権利が与えられないのは何ゆえか。「金がない」という言葉は、まこと厳粛に家とクルマを持つオトナだけに許される特権のようである。
 んんむ、困りました。
 というのも、わが一家は生来、ボヘミアンの血統に生まれつき、生涯を流浪遍歴の風に身をまかせ、「移動しつづける」ことによってのみ、おのが位置を見いだすことのできる系譜だからである。これと反することを行なうことは、細君の言葉を借りれば「星まわりが悪い」といって忌諱される。余談だが、この言葉の支配力の大きさは世人の想像を絶し、例えば「あの女はあんたにとって星まわりが悪い」と宣言されれば、即座に私は恐怖の奈落に突き落とされる。この「星ワルな女」「星ワルな行い」「星ワルな方角」など「星ワルなもの」は災厄凶禍と同義なのであり、これと同じ意味で定住と蓄財は騎馬民族にとっての最大の星ワルなのである。渋滞ばかりで動かないクルマはもはや不動産であり、家はべら高の土地資産価値において蓄財と同じ、つまり超星ワル。
 んんむ。困りました。
 というわけで、35歳の生誕日をきっかけに、南房総館山の海辺の温泉に赴き、遊行三昧、湯につかりつつ打開策はないかと思索を行なってきた。奇しくも、同日は日本においてはじめて高速道路における二輪車二人乗りが解禁された日であり、数組のタンデムライダーにも遭遇し、さわやかな風を感じたものである。
 二人乗り不可のオートバイを3機、同じく一人乗りの自転車2機が全財産の俺は、長年のライダーでありながら、はたまた、おのが生誕日でありながら、この恩恵とは無関係。まさに騎馬民族の男気。馬は遊牧民の命。細君に言わせると、「星まわりは抜群」だそうである。
 けっきょく、クルマと家に関するオトナの思索は「騎馬民族の男気」によって一蹴され、さらには1泊2日の物見遊山でしっかり散財してきて無一物。これもまた、星まわりはいいそうである。細君によれば。