自動車教習 卒業検定

 なぜいつも発表というものを待つときは、投げやりな気持ちでいなければならないのだろう? 昨夜から降りつづく強めの雨が黒々とした教習所路上のアスファルトで爆(は)ぜるのを、見るともなく見ていた。ああ、投げやり。修了検定のときもそうだったし、大学受験のときも、限定解除も、高校、中学受験も。
 本番に滅法強い市原家の遺伝子直系とはいえ、発表を待つときは、どういうわけだか、いつも自暴自棄。だから限定解除試験(今でいう大型自動二輪)を一発合格したとき、もうこれで金輪際、人から試されるのはまっぴら御免だと決心し、よって就職試験も受けたことがなく、大学の卒業口頭試験も回答拒否。困った教官が、それじゃあ試験と考えずに、いろはにほへとを言ってごらんと助け船をだし、「いろはにほへと」のあとがつづかず、
「それじゃあ、干支を全部言って」
 これも順序が無茶苦茶で、けっきょく「龍」のところでやめた。東京大学文学部国文学科教授会は、いろはと干支さえ言えない俺を「卒業」という体のいい烙印を押しておっぽり出した。以来、人に試されることはほとんど憎悪に近いものとなり、俺を試すことができるのは天の神さんだけであって、よもや人生折り返しにきて再びみたび試験を受けることになるとは!
 しかし今日の卒業検定は、路上一般課題走行、路上自主経路走行、所内の方向転換(車庫入れ)と、自分でも怖いぐらいに完璧にできた。試験官はけっきょく一度もペンをとらなかった。満点か、へへっとうすら笑いを浮かべつつ、おしまいの停車。
「おいキミ、どこ停めてんだ。ここ対向車線だぞ!」
 あーは? まさに、あーは?という感じでしたね。確かにクルマを右端に停車させている。
「あ〜、んじゃそこからでいいから左寄せて」
 左ウインカーを出すのも忘れ、右ウインカーのまま試験車はぶざまに左にハンドルを切る。しかし2メートルで交差点。
「はい停まって停まって。もうそこでいいから」
「ここで?」
 試験車両は道路に対して斜め45度で頭を左端に突っ込んでいる。
「はい、じゃここで降りてください」
 待合室にもどりながら振り返ると、まるで大捕り物の最中の覆面パトカーのように道をふさいで堂々と斜めに鎮座する1号試験車両があった。あきれてひとりで笑った。ちきしょうめ、かっこいいじゃんか。
 次の受験者が発進準備をしているのを待合室のガラス越しにうち眺めながら、無意識で俺はオリンピックの体操中継のアナウンサーの真似をして、ちょっと自嘲気味に呟いていた。
 受験番号1、発着点番号1、車両番号1のイチハラチヒロ4月1日生れ、いま完璧な演技を終え、え、え、おおーーっと、ここでなんと頭から着地です! これはいけません、頭から着地はいけません、頭で着地のままテレマークです、いやぁイチハラ選手、まさかの乱心、最後の最後でとんでもないフィニッシュです、わざとやったんでしょうか、とてもミスとは思えません、まだ頭で立ってます、まだ立っています、このような着地は体操史上はじめてのことではないでしょうか。前例のないことで審判員も途方にくれている模様です・・。はぁ、やめた、あほくさ。
 待つこと1時間半、結果発表はあっさり、「1番の人、合格です」
 試験中に同乗していた2番の学生が、えっという顔で俺と試験官を見くらべた。
「2番の人、残念だけど不合格。3番の人・・」
 検定講評では、やはり満点だった模様。
「まあ、強いていうなら、停車のときにもうちょっと左に寄せた方がいいね」
「もうちょっと・・?」
 試験官は目で俺を制する。これ以上余計なことを言うな、という目だった。でも俺は訊かずはいられなかった。
「車庫入れのあとの」
「あ?」
 試験官の目がちょっと泳いだ。それを見逃さぬ同乗の不合格学生の目が鋭く試験官を射る。
「えっと、路上の方ね。路駐車もあって停めにくかったと思うし、ま、あんなものかなあ。じゃ1番の人は、会計に行ってください」
 俺はそそくさと一人追いやられた。受験者の列を離れ、路上での停車時の左寄せは問題なかったはずだと考えながら歩いた。深く考えるのはやめよう。俺は何かと思索的すぎる。もっと素直に考えよう。合格なんだ。やったぜモナミ! 合格だっての、はっはー・・腹減った。
 昼食をはさんで卒業式を終え、帰りのバスに乗り込むとき、雲間からぱっと陽が差した。いやはや祝福感抜群のタイミングはありがたいが、雨の直後でもわもわっと立ちのぼる蒸気にむせ返りそうになりながら、ポケットから取り出した親知らずにキス。
 何はともあれ6月30日、卒業。