1、ゴール! ほんとにアイヤーンマン!
ゴール10キロ手前で、やっと実感しはじめた。
アイヤーンマンになれる。そう思うと、痛みが滲みだしてきた足がすこし軽くなった。
1キロごとに道路端に掲げられた距離表示と、1.5キロおきの給水所が気持ちを支える。残り9キロ、8キロ・・と、およそ6分強に一回のスローなカウントダウン。7キロ・・・・・・・・・・6キロ・・・・・・・・・・、表示の横を過ぎるたびに、一歩一歩の歓びを噛みしめずにはいられない。
それまでは1.5キロごとの給水をすべて受けていたが、残り5キロから給水を飛ばし、ペースを上げた。
残り1キロ表示を過ぎてから、わずかな余力のバケツをひっくり返し、全力疾走で女性ひとりと外国人ひとりを抜いた。お堀にかかった石橋を渡り、城壁の中へとつづくゴールへのメインロード。地元の子どもたちがハイタッチの列。青いじゅうたんの敷かれた花道に娘が飛び込んでくる。
全力疾走。娘も裸足で全力疾駆。力を、一ミリも残さず出し切りたかった。
ゴールテープを切ると、地元ボランティアの女子中学生ふたりが駆け寄ってきて、右から左から世話をする。勢いのついた体が止まることができないので、歩きながら、フィニッシャーのバスタオルをかけてくれ、足にエアーサロンパスをスプレーしたり、トランスミッターをはずしたり、ドリンクをくれ、完走メダルを渡してくれる。
「救護所は、行かなくてだいじょうぶですか?」
「きゅ、救護所?」
ボランティアが去ったあとは、妻と娘が世話してくれた。とにかくドリンクを2リットル飲まねば。
いっしょに参戦した主将(僕の35分前にゴール)の奥さんのみみちゃんのアドバイスである。彼女は宮古島ストロングマン完走から帰還後、家で体がたいへんなことになった。水分欠乏で細胞が壊れてしまったのである。とにかく水分を摂るように、と言われていた。
「主将は?」
「30分以上前にゴールしたけど、着替えてくる、って言ったまま、帰ってこないみたい」
そうか、着替えか。ウェアは上下ともまだら文様に塩を吹いている。
「んじゃ、僕も着替えてくるわ」
「あっちにシャワーがあるみたいだから」
着替えは持っていなかったが、もらったばかりのフィニッシャーTシャツがあったし、下はトライアスロン用の水陸両用のパンツだから、洗ってしぼってまた着ればいい。
シャワーを終えて表に出ると、地元中学生の女の子が「マッサージはいかがですか?」とにっこり。誘われるままに体育館に入ると、まるで避難所のように完走者たちが一面に倒れてマッサージを受けている。
案内された場所でうつ伏せになると、かわいらしい男子中学生がふたりがかりでマッサージをはじめた。右から左からのご接待。15分。ほんとにありがとう、おかげでもう一回、走れそうだよ、と言って体育館を出ようとした途端、とつぜん目の前が暗転。強い吐き気。
よろよろと体育館とつながった格闘技場に入ると、やはり避難所の様相で何十人ものアイアンマンたちが倒れて点滴を受けているではないか。
「ドクターを呼びましょうか?」と女の子が言った。
簡単な診察を受けて、点滴開始。体が異常に寒くて強ばっていたのが、30分ほど点滴を受けているうちに、暖まってきた。斜めむこうで点滴を受けていたアイアンマンが、むくっと起きあがったかと思うと、なんと着替えに行ったまま行方不明の主将だった。
まもなくワイフがやって来て、
「着替えてくるって言って、ふたりとも消えちゃうんだもの」
きっと主将も、他のアイアンマンたちも、ちょっと着替えてくると言って出たつもりが、僕と同じように女子中学生の勧誘についていってしまったのだろう。
この晩、主将夫妻とビールで乾杯。
ゆっくりしたかったが、夜10時までにレースで使ったチャリを引き取りに、丘の上のトランジションエリアまで行かねばならない。翌朝も午前中のカーフェリーに乗ることになっているので、後片づけや積載など、やることが多い。
2、アイヤーンマンとは?
つい数年前まで、トライアスロンをやる人のことをアイアンマンというのかと思っていた。
トライアスロンの世界に足を踏み入れてから、距離の区分で数種類のトライアスロンがあることを知ったものの、ロング・ディスタンスのレース全般のことを指してアイアンマンと呼ぶのかと、依然、勘違いしていた。
ロングレースにも国内でいくつかあって、4月の宮古島ストロングマン、9月の佐渡アストロマンと並んで、長崎県の五島列島において、梅雨のさなかの6月に行われるのが「アイアンマン・ジャパン・五島長崎」。
スウィム3.8キロ。
チャリ180.2キロ。
ラン42.2キロ。
世界からプロも含めた一流のトライアスリートが集まる、国内最高峰の大会であると同時に、ずっと僕が勘違いしていたようにトライアスロンの代名詞でもある。
そのことをちゃんと知ったのは、大島(東京都)で初トライアスロン(ショートディスタンス)に出る直前の2006年の5月。
ずっと我流でやってきたが、初レースにむけて、初めてトライアスリートたちの練習会に出たときである。横を走っていた人が、アイアンマンだった。走行会は山岳地帯をチャリで80キロほど走る内容だったが、アイアンマンのひとりは、集合時刻の午前8時までに、ぐるっと80キロほど走ってきたと言っていたし、もうひとりは、2時間ばかり自転車ローラーを踏んできたと平然と言っていた。
練習でも体力温存的な走りではなく、アタックアタックの連続。後先考えず追い込むのか、と鮮烈だった。
「へとへとになって、もうだめだ〜っと思ってから、<その先の自分>が出てくるんですよ。意外にやれちゃうもんですよ」
そう言われたが、スウィム3.8キロ、チャリ180.2キロ、ラン42.2キロ・・個別でさえ未踏の距離、ましてや3つをいっきにやるのは想像がつかない。まずは個別制覇から始めないといけないが、その前にアイアンマンに出るためには出場選考を突破しなければならない。
「だいじょうぶだと思いますよ。今は厳しくないから」とアイアンマン。
過去1年にトライアスロンレースに出ていて、そこそこの成績でちゃんと完走してさえいれば、たいがい出場権は獲得できるのではないかと、おしえてくれた。
●アイアンマンTV映像(はじめの2分)
3、朝5時から洗濯するアイヤーンマン
レース当日の夜にチャリを引き取り、宿のガレージで洗車した。他のアイアンマンたちのチャリもきれいに洗車されてあった。
翌朝5時に起きて洗濯場に行った。家族はまだ眠っている。彼女らが目覚めるまでに、たまった洗濯ものをきれいにやっつければ、「おとーさん、さすがアイアンマン!」と激賞されるにちがいない。と、ほくそ笑んで洗濯場に降り立ったのだが、3つある洗濯機はすでにがたごとと動いていた。ウェットスーツやヘルメット、シューズが所狭しと物干し竿にかけられている。おそるべし、アイアンマン。
7時。宿の食堂で朝食を食べた。晴れやかなアイアンマンたちとの挨拶。
機材、荷物のクルマへの搬入を終え、午前9時にチェックアウト。
フェリーターミナルに行き、クルマを駐車場に停め、めざすは「うま亭」。ウニ丼と五島牛うどんを食うのだ。
「さっき、朝ごはん食べたじゃない?」とワイフ。
胃袋もアイヤーンマン、と思ったら、うま亭は10時からの開業。40分ほどあったので、隣の喫茶店でコーヒーを飲みながら時間調整。店内ではアイアンマンの映像が大型モニタで映しだされている。ほどなくアイアンマンらしき客たちで店はいっぱいになったが、みな朝から大ジョッキでがつんがつん。おそるべし、アイアンマン。
4、アイヤーンマンへの一歩は、何も考えないのが一番かもしれない
アイアンマンに出ている自分を想像できるようになったのは、いつだったか、正直思いだせない。どう考えても、180キロもチャリに乗ったあとに、やったことさえないフルマラソン・・イメージしろと言っても無理である。唐突に、ノリと勢いだけで、えいやーっと申し込んだというのが実際である。
考えだすと、どうやっても無理、という結論になる。でも、たぶんやったらやったで、何とかやってしまいそうな気もする。だから考えないのがいい。
もっとも、それなりの下準備は必要である。
2006年5月、佐渡一周210キロのチャリイベントで完走。このあと、ひとりでランニングしてみようとしたが、わずか数キロで断念。
2006年6月、大島でショートディスタンス(S1.5+B40+R10)でトライアスロン・デビュー、そして無事完走。ただしこの日は海が大荒れのため、スウィムは規定の半分の距離で実施。種目ごとの個別練習だけでなく、複数種目をたてつづけにやる練習も必要と実感。とくにトランジット直後から体をなじませるためには、訓練が必要みたいである。●レポートリンク
2006年8月、能登半島の珠洲でミドルディスタンス・トライアスロン(S2.5+B100+R23)をかろうじて完走。長距離の移動、キャンプ生活のさなかでのトライアスロンは、想定外の消耗があり、新たな課題が見えた。●レポートリンク
2006年10月、富士スピードウェイで200キロのチャリ耐久レースで、制限時間7時間以内に完走。競技中にうんこに行きたくなるという新たな課題も。
2006年11月2日、思いたってアイヤーンマンJAPAN申し込み。11月1日エントリー開始で、41番でエントリー申請受理された。なんと、主将も僕の直前にエントリーしていた。
エントリー後は、過去のトライアスロンの成績などで審査され、出場の可否がくだされるのは2週間後。
2006年12月4日。2週間ほどで結果が出るとのことだったが、1ヶ月たっても音沙汰なし。
参加許可が出たら出たで、すぐ高額エントリーフィー4万5千円を振り込まないといけないので、それはそれで困惑することは間違いない。
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12月10日。エントリー合格通知が来た。
このたびは2007年6月17日に長崎県福江島で開催される、2007アイアンマン ジャパン トライアスロン五島 長崎に参加お申し込みをいただき誠にありがとうございました。
厳正なる選考の結果 市原様を本大会出場資格者に選出させていただきましたので、ここにお知らせ申し上げます。
(2007アイアンマン ジャパン トライアスロン五島 長崎 出場決定通知書)
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うかってしまった。・・うれしさ半分、当惑半分。
5、うま亭を見いだした美しき妊婦
福江港、午前10時。うま亭が開店。
ウニ丼(並)を食べた。2000円ちょっとでこの量!
ウニ丼(小)1200円もあるが、ぜんぜん(小)ではない。これがふつうだ!
また、五島うどんはジューシーで涙ものの五島牛入りで500円ちょっと。
この店、値段と分量がおかしい。僕はレースの前々日にも来たし、妻子もレース当日に来た。主将夫妻も2度、食べに来たそうだ。
この素晴らしい店を嗅覚だけで見いだし、僕におしえてくれたのは、長崎からジェットフォイルで海を渡ってきたペネロペ・クルス似の妊婦であった。
「ハズすことも多いんだけど、今日はかなりアタリだったな」
と、のんびりとした口調で、胎児の父親が言った。
彼は長崎の脳外科医で、五島列島に上陸した日に、はじめて会った。
福江島文化ホールで選手受付を済まし、競技説明会に参加していたときに電話があった。ジェットフォイルが福江港に到着する時間だった。
福江文化ホールは、アイアンマンレースの選手や関係者でごった返していた。有名メーカーがあちこちで展示会を開き、雑誌でしか見たことのない有名プロ選手をあちこちで見かけた。
選手はみな、腕に青いバンドを巻いているから一目で分かる。いや、バンドに頼らずとも、その風貌と肢体でそれと分かる。他のトライアスロンでは、マッチョマンやアスリートおたくっぽい人、いろんな体型、いろんな風貌を見たが、アイアンマンでは国籍の壁を越えて、驚くほど画一的である。
まず思うのは、細い。アイアンマンという言葉からの連想には遠く及ばず、とにかく細い。そして当然ながら締まっていて黒い。それに坊主頭が驚くほど多い。そして誰のうでにも、ナンバーの刻印された青いリストバンド。だから、まるで精悍な徒刑囚の島のようである。
リストバンドは一度つけると、はずせないようになっている。レースまでの三日間、どこに行くにもこの青いバンドといっしょである。選手登録のときに、バンドをつけてもらう。文化ホールのエントランスの雑踏中、僕は充実した気持ちで、自分の腕の青いバンドを何度も眺めた。
脳外科医とはそこで会った。電話の着信があった。あたりをうかがうと、「ああ、分かりました。後ろです」
振り返ると電話を持って笑っている坊主頭がいた。坊主頭だったが選手には見えなかった。彼が脳外科医だった。
もう十年近く前になるだろうか。ビモータというレアもののイタリアン・オートバイクメーカーを乗る者たちの小さな集まりがインターネット上にあった。そのときの顔なじみならぬ、名前なじみである。ただ、千葉と九州だったので、直接話したり、会ったことはなかった。ほどなく僕はビモータを手放し、会にも顔を出さなくなってしまったのだが、ハンドルネームを使う人があまりいなかった時代だったから、彼の一風変わった苗字のおかげで、長い時間の波風にも削りとられることなく記憶に残っていた。
そしてこの離島で、十年越しの、初めての対面であった。
その日、椿茶屋という福江島随一の名店で夕食を御馳走になった。海にせり出した絶壁の細道を下っていった先にある辺鄙な場所にある古民家の一軒家だった。よほどの高級店らしく、行きも帰りも、店が用意したタクシーが好きな場所まで無料送迎してくれる。囲炉裏を囲んで、炭火でじっくり海の幸と五島牛を炙る情緒。お世話してくれる店の女の人の素朴な気遣いがうれしい。酒は地元のじゃがいも焼酎。他に客はいない。食事の追加注文をしようとすると、予約した分しか用意できないという。まさに、ほんものの味わいのある名茶屋であった。
店を出た僕たちはタクシーで福江港前の商店街へ行き、ナカガワ主将夫妻と焼き鳥屋で合流して二次会。
さらに主将夫妻と別れ、三次会へ。妊婦をタクシーに乗せ、ひとりで宿に帰らせてしまった脳外科医と五島ナイトを闊歩する。多くの店は早仕舞。
聞き込み調査をすべく、タクシーに乗って、運転手さんがよく行くキャバクラをおしえてもらう。が、一軒目の店は即撤退。またタクシーに乗って運転手さんに聞き込みし、「キャバクラはないけど、カラオケと女のいる店なら」と案内され、店に入った。
女の子(ほんとはママ)と、アンちゃん(ほんとはチーフ?)が立つカウンターに陣取り、カラオケを歌いはじめたが、まずはツキダシにと「天城越え」を歌っていると、「それで歌ってるつもりか、マイク貸しな」とカウンターの女性客? に叱責され、マイクを奪われた。しかし、フリつき情感つき感動もののみごとな天城越えに唖然。
得意なレパートリーを出していっても、失笑を買うだけ。
こうなったらラッパーになってぎゃふんと言わせてやろうかと(小田原だと誰も知らないせいで、うまいもへたもなく、しーん、となる)、いくつかライムをくり出すも、けらけら笑われる始末。
「おまえら、歌えんのか」と言ったら、
「あったりまえでねーか!」
チーフもへらへら笑っているが、マイクを手にした瞬間、ホンモノの男になる。ラップをやらせたら、五島の若い連中はとどまるところを知らぬのだ。西の果ての海に、ラップ天国の島があるとは!
もはや僕は悔し涙を浮かべながら、ほんとは季節はずれの禁じ手だが、ええいかまうかクソ流刑地め、と、もうなりふりかまわず「ケツメさくらの越冬つばめ・ひゅるりミックス」をくり出してやろうとブックに手を伸ばすと、
「まさか、さくら、なんていわないよね〜?」と、けらけら笑う店の女。
完膚なきまでに打ちのめされ、もう金輪際ラップはやめだ、と、すっかり開き直って、
「おめーら田舎モンめ、島でカラオケしかやることねーから、カラオケばっかやってんだっぺ! おれは忙しいんだ、ラップなんてやってるヒマがねんだ!」
と、支離滅裂、方言滅裂の悪口を並べ立てたが、「アイアンマンでも、おもろい人おるね〜」と、さんざん笑われて終わった。
この晩、宿に帰ってから、久しぶりにぐっすり眠った。
6、ボンバルディア、着陸トライすること3回
レース前日。いきなり二日酔い。
朝食を食べている途中で貧血で目の前が真っ暗に。壁伝いにかろうじてトイレになだれこむと、思いきり嘔吐した。
部屋で横になっていると、天井がぐるぐるまわり、冷や汗がとめどもなく流れてくる。
さすがにやべえかなあと思ったが、こういうときは経験上、じっとしているよりも、活発に動いていた方がよかったりする。気合を入れて体を起こし、主将に電話すると、スイム会場で泳いでます、とのこと。窓の外を見ると雨も降っている。冗談かと思ったら、ほんとうに試泳をしていたとのこと。
脳外科医と主将は偶然にも同じ宿だったので、とりあえず、よろよろとクルマで行ってみる。正午にはワイフと娘が福江空港にボンバルディアで到着することになっていたし、彼らの宿と空港は目と鼻の先だった。
途中、鬼岳温泉に入った。僕のほかには誰もいなかった。濃厚な赤茶色の露天湯は、いまにも滅してしまいそうな体に血の気を与え、蘇らせる霊験がありそうな気がした。
顔を上げてみたが、ぽっこりと丸い草原の鬼岳は霧雨に煙って見えなかった。前日、椿茶屋に向かうタクシーの運転手が、鬼岳が霧で見えないときは飛行機が着陸できず、何度かトライすることがある、と言っていたのを聞いた。何度かトライされたら乗っている方は気が気じゃないだろうな、と思った。それでもだめなときは、博多まで引き返すことも、たまにあるのだとも言っていた。
宿で脳外科医と会えた。彼と妊婦とはもう一晩いっしょに過ごしたかったし、ぜひレースまでいてほしいとも思ったが、人に会う用事のため、夕方のジェットフォイルで長崎に戻ることになった。
チェックアウトを済まし、正午には三人で空港に行った。
着陸の時間になっても、すぐ真横に鎮座しているはずの鬼岳は姿を見せず、滑走路の先にも機影は現れなかった。空港のロビーがざわつく。着陸トライがうまくいかず、2回目のトライをするべく、今、ボンバルディア機は上空を旋回して体勢を整えているところであるとのことだった。
ロビーの外に出た。雨はほぼ上がっていて、日ざしも薄明るい。が、なぜか鬼岳は見えない。潮流が島に当たってできた海霧のようなものなのかと思った。
「あ、音聞こえますね」脳外科医が言った。
ボンバルディアの軽やかなレシプロエンジンの音が雲の上を行く。近いはずなのに機影は見えない。この低い雲の真上で、妻と娘が不安な顔ですわっているのかと思うと、不思議な気がした。
ロビーで荷物が出てきたよ、と、妊婦が言って、僕らは走った。いつの間に着陸したのか?
しかしそれは出発便が欠航となったために、搭乗客にもどされた荷物だった。
三度目の着陸トライがはじまろうとしていて、ロビーの中はちょっとした緊張が走った。
僕たち三人はちょっとした賭けをした。もし飛行機が博多にトンボ帰りした場合、運賃はどうなるのか?
全額返還にふたりは賭けた。半額もどる、に僕は賭けた。正解は、全額返還だった。それを僕は、一時間後の妻からの電話で聞いた。妻と娘は博多空港で全額返還を受けていた。
これから長崎までJRで行って、そこからジェットフォイルで福江をめざすとのこと。もしかしたらその日中の到着は無理かもしれないとも言っていた。
脳外科医と妊婦のふたりを見送りに港に行った。出航まで30分ほどあったので、どこかで食事を、となった。空港での一件のために僕たちは昼食をとり損ねていた。妊婦が、「あそこにしよう!」と、うま亭を見いだしたのは、そのときだった。
7、モノレールマンの道の駅めぐり
ふたりを見送った港で、ほどなく5人の集団を迎えた。長崎からやって来たジェットフォイルのタラップから、娘と妻、つづいて妻の実兄と両親が降り立った。妻の兄という人は、現役の鉄道マンである。しかも鉄道マンの中でも誇り高い存在として畏怖されるモノレールの運転手、つまりモノレールマンである。同じモノレールでも、よく見かける懸架式のモノレールなんかじゃない。あれはぶら下がり野郎だが、義兄は由緒正しく跨(また)がる方のやつである。
宵の口から、六人で安くて美味いという寿司屋に行った。主将夫妻にも一応声をかけてはみたが、レース前日なので無理には誘わなかった。彼らはこの日のために血のにじむような準備をしてきたのだ。そして僕の胃もまた、酒のために血のにじむような充血ぶりだった。
乾杯の席で、僕だけ酒がないのを気の毒そうに義兄が見ていたので、前夜飲みすぎで朝から吐いたことを話し、
「というわけで、ほんとに今宵は、ココロから飲みたくなんです。気にせず、飲んでください、はいビール」
とビンを差し出すと、コップを持ったまま、びっくりするほど大きな声で笑った。義務から解放されて、ほっとしたのかもしれない。
義兄、義父、義母の三人は前年の能登半島でのトライアスロン大会でも応援に来てくれた。そのときは能登半島先端のランプの宿があまりに素晴らしくて、ついついレース前日に飲みすぎてたいへんなことになった。その教訓は僕自身には生かされていないが、義父、義母、義兄の三人は、けっしてムコには飲ませぬように心に決めてきていたようだった。
義兄は鉄道マンであると同時に、アマチュアの鉄道写真家でもあり、かつては鉄道オタクだったのかもしれないが、今はその全エネルギーを注ぎ込んで「全国の道の駅を制覇する」というかなりマニアックかつ鉄人的な趣味に取り憑かれている。鉄道オタクは今や若い女性にも理解と支持層が広がり、かなりポップなオタクに堕してしまったことに失望して、義兄は新たな深淵を求道しているのかもしれないし、ちがうのかもしれない。真相はともかく、現実に義兄は休みがあるごとにクルマを飛ばして、ひとつずつ丹念に道の駅を攻略している。そして、僕も知らなかったのだが、道の駅ごとに売っているキップなるものを買っている。駅だからといってキップがあったところで道の駅である。何に乗れるわけでもなく、いったいそんな不要なものを誰が買うと予測してこの企画がはじまったのか僕には想像もできないが、義兄はそれをせっせと買い集め、しかもめったに出ないレアものキップのために、一度に何種類も何十枚ずつと買ったり、専用のものかと思われる大型のキップ用ハードケースを抱えて大枚をはたく姿は常軌を逸している。能登でも道の駅めぐりをやっていたし、長崎の福江島にもひとつ道の駅があるということだった。
レース当日、鉄道写真用のものすごい機材で僕や主将の写真を撮ってくれた義兄は、沿道の人たちからプレスと完全に勘違いされて、いろいろ訊かれて困っていたそうである。
応援のあいまに、義兄をはじめとした道の駅応援団6人が食事に行ったのも、うま亭であった。食通の義兄も、うま亭には完全に納得していたらしい。値段がまたすごい、と驚いていたとも聞いた。
応援は驚く人も来てくれた。五島ナイトでのラップで、完膚なきまで僕を打ちのめしたママとチーフのふたりである。早朝のスタート前と宵の口のゴールの二度、会いに来てくれた。写真をいっしょに撮ろうというと、仕事明けだから化粧落としていて恥ずかしい、などとかわいいことを言っている。ゴールのときも、彼女らふたりがしばらく待っていてくれていたことを妻から聞いた。僕のゴールが遅くて、けっきょく会えなかった。
ゴールを明るいうちに切りたかったのも、じつはうま亭に直行したかったからである。
レース後にはけっきょくのところ行けなかったが、翌日、五島を発つ直前にもう一度この店に来ることができて、しみじみと福音を感じた。
午前11時、フェリーが出港。五島をあとにした。
8、体力以外の参入障壁
人間は、いろいろな理由づけをして、厳しい状態から逃げようとする側面もある。アイアンマンぐらいになると、初チャレンジのときは不安も大きいし、費用、時間、いろいろな面において強いプレッシャー下に置かれる。
2006年12月10日の日記から。「アイヤーンマンへの第一歩」と題されている。
娘の読売童話賞受賞式で行った大阪から帰ってくると、きていた。エントリー合格通知。
さて次の関門。参加費4万5千円を金曜日までに払わなければならない。
手もとに読売新聞社の名前が印刷された封筒がある。会場で交通費として渡されたものだ。小田原〜大阪間を大人1名子ども1名で新幹線往復分で換算された交通費。実際には新幹線ではなく、眠らずにクルマ自走で行ったので、ワイフがそのまま僕にくれた。
開封すると、4万4,460円が入っていた。何という天のめぐりあわせ。危機に陥ると、ぎりぎりちょっと足りないぐらいの救いの手が差し出される。足りない分は、少しの知恵でのりきる。まるでダヴィンチ・コード。
残りの540円ぐらいなら僕にだってある。振り込みにいったら、手数料分を忘れていて失敗。知恵が足りなかった。ダヴィンチ・コード。
今回の大阪行きで、もうひとつの収穫。
長崎福江島までクルマで自走往復は、不眠症の人間にとっては、かなり厳しいものになりそうだということ。しかも応援にくる家族は飛行機。ひとりでハンドルと不眠と戦わねばならない。
のるかそるか。とりあえず、そ、そる・・。
この4日後の日記で、早くも迷いが生じている。題は、「アイヤーンマンのピンチ」
アイヤーンマン・トライアスロンじゃぽんの出場ピンチ。
ひとつ、アイヤーンマン・オフィシャルツアーのパンフレトには、飛行機で4泊5日とある。これに加えて長崎五島列島までクルマとフェリーで行くと最低でもプラス2泊。夏休みではなく、ふつうの6月。娘の小学校はどうする?
ひとつ、僕は飛行機に乗れない。
最後のひとつ。致命的なことに、せっかく大阪でゲトしたエントリーフィー4万5千円をキャバクラとマス釣りに使い込んでしまった。釣り堀の管理人に、「いつもありがとうございます」と言われるまでに、毎早朝、通いこんでしまったのだ。こんなことになるのを恐れて、ほんとはエントリフィーをすぐに振り込みに行ったのだが、振込手数料が足りなくて財布にもどしたのが運の尽き。銭を持つと、こうだ。
わわわ。
じつはこの前後、12月1日にマスのルアーフィッシングを始めている。後から思うと、アイアンマンから逃げる何かを探していたのかもしれない。釣り場に月に20回以上通う異常な状態。さんざん散財、追い討ちをかけるように12月25日にはフライフィッシングまで始めている。逃避への心理は間違いない。
この12月と2007年1月の日記は、ひたすら釣り釣り釣り・・。
完全に逃避している自分を認めるのが嫌なのか、「フライアスロン」などという造語をつくり、釣りとトライアスロンの練習を適当に混ぜて誤魔化そうとしている。
じつはこの間、日記には記されていない第二の転機があった。
アイヤーンマン出場とりやめ・・その意志は、家族にはすでに伝えてあったし、翻ることはないと思った。いろいろな意味で、とにかく時期尚早、まだ自分には無理! と思っていた。
川口に住んでいる弟と会ったとき、その話をした。弟はにやっと笑って、
「なーんだ、けっきょく逃げるのか」
酔っていたので、そのとき僕がどんな悪態をついてその場を誤魔化したかは覚えていない。
が、時間がたつほどに響いた。なーんだ、けっきょく逃げるのか・・頭の中でずっとその言葉がリフレインしていた。
これも縁(えにし)。アイアンマンなんて、一度気持ちが挫けたら、次はいつできるか分からぬ、
「おかーさん、金くれ」
「どしたの、いきなり?」
「アイアンマンやるわ。4万5千円たのむ」
判断停止。いっさい考えるのをやめ、冷徹非情に肉体を動かして銀行へ行き、エントリーフィーを振り込んだ。
9、アゴの飛翔
福江港を出港したフェリーは五島列島の五つの島、五つの港に各駅停車しながらゆっくりと博多をめざして進む。
海面をトビウオが幾筋もの航跡を残して飛び去っていく。
トビウオは、このあたりでは「アゴ」と呼ばれ、うどんも味噌汁も煮物も、ダシはアゴを使う。確かに島のスーパーマーケットの乾物コーナーでは、ふつうにアゴダシが並んでいる。カツオやコンブはやや分が悪そうに端に追いやられている。関東ではちょっと見られない風情である。
トビウオの飛翔をはじめて見た娘は興奮していた。
「ふつうに鳥みたいだね」とワイフ。
やはりトビウオが飛ぶのを見るのは、はじめて。
僕だって最初に見たときは目を疑った。博多から福江にひとりで向かうフェリー。予備知識なしに、夜明けの海でいきなり見たときは、ほんとうにびっくりした。
それにしても、行きのフェリーは奴隷船のようだった。
パソコンは持ち込めなかったので、手帳ほどのリングノートに記したメモから抜粋。
6月14日(大会3日前) 0:10 博多発カーフェリー内
カーフェリーといっても、かなり小さい。
この小さな船の一室しかない雑魚寝部屋が奴隷船状態。ひとりあたり肩幅分の幅。しかも横も前も後ろも、むっちり日焼けしたアイアンマンがひしいめいているものだから、ほんとうの奴隷船の様相である。スパルタクスの乱。
日本人、韓国人が半々ぐらい。しかしマイ毛布とマイ枕を持ち込んでいるのは僕ぐらい。枕と毛布を抱えての搭乗は、さすがに恥ずかしかった。
コンビニで買った弁当を食い、黒霧島を飲みながら狭いスペースでストレッチしていると、韓国人アイアンマンが片言の日本語で、
「フクエ? アイアンマン?」
へらへら愛想笑いしながら「イ、イエス」なんて、変な英語交じりでの返答しそうになるのをぐっとこらえて、ここは日本、美しい日本、美しい日本の私は、毅然たる表情で、
「ん?」
と言ったら、
「ニッポンジン、デスカ?」
ときやがって、つ、つい、「イエス」
言ってしまってるではないか、やっちまった愛想笑い。
6:20 五島列島を航行中
船は五島列島の5つの各島に寄港していく。ひとつめの寄港地で目が覚めてから眠れなくなった。
アイアンマンがひしいめいているわりには、静かな寝息。たまにハングル語の寝言なんだか叫びなんだかが響くぐらい。これは間違いなく、僕のイビキの騒音はアイアンマンナンバーワンであったにちがいない。自分では分からないが、ワイフに言わせると、合宿とか、船内とか、そこに居合わせる小集団の中で僕のイビキはたいがいナンバーワンなのだそうである。
早朝のデッキに出て海面を見ていると、一羽の鳥がさーっと船から逃げるみたいに飛んで波間に突っ込んで消えた。
不審に思っていると、ほどなく、また同じような鳥。
三回、同じ光景を見てさすがに気がついた。
トビウオ?
飛び魚といっても、イルカみたいにジャンプするぐらいだろうと思っていたが、実際に目にしてみると、ふつうに「鳥」である。ハネをせわしく動かすカワセミみたいな感じ。けっこう大きいし、50m近く飛行している。
おもしろくって、しばらく海面に釘付けになった。
10、宿がとれない、船がとれない?
とにもかくにもアイヤーンマンに申し込んでしまったのだから、あとは諸々のことをどうにかするしかない。
モロモロの課題1、大会会場まで、クルマでの自走距離は往復で2600キロに及ぶ。行くだけで疲れてしまうのではないか。はたまた、レース後のボロボロの状態で帰ってこれるのか?
モロモロの課題2、遠征先で不眠症になる前例あり。体力と気力の著しい低下は避けられない。
モロモロの課題3、アイアンマン・ウィークは、混乱を避けるために現地への交通機関、宿泊施設ともに旅行代理店が一括して管理しているという話である。要するに個人では予約できない。しかしながら、関東からクルマで自走・参戦というパックコースは当然設定されていない。代理店を通さず、個人で宿、フェリーが確保できるのか?
モロモロの課題4、クルマをフェリーで運ぶ予約は、乗船日の一ヶ月前にならないと受け付けてもらえない。もしNGだった場合、クルマを博多港に置いて、チャリと身ひとつで島に乗りこむことになる。宿もとれなかったら、野宿か? 雨が降ったら悲惨じゃないか。梅雨である。
モロモロの課題5、夏休みでもなく、ふつうの平日。離島で1週間・・仕事はだいじょうぶか? 4年間いっしょにやってきた唯一のスタッフが退社してしまったので、仕事は電話対応から何から僕ひとりである。
モロモロの課題6、都内勤務のワイフと、小学4年生の娘は、どのように合流するのか? 小学校を最低でも1日は休ませないといけない。
考えだすと、けっこう滅入る。なので、ぎりぎりまで、ほっておくことにした。
確かに、諸々の課題というものは、意外と、なるようになるものである。
最初にすんなり解決したのは宿泊場所だった。これは大きな安心材料だった。ビジネスホテルとはいえ、野宿よりはいい。ただし通常の部屋はアイアンマン用に代理店におさえられているとのことで、ふだんは使っていない、つまり今は廃盤となった古い「民宿」の部屋。一泊が3000円・・安すぎてかえって恐いものはあるが、とりあえず雨の野宿はせずにすむ。
さらに大会一ヶ月前にはフェリーでの車両搬送の予約確保に成功。案外、あっさり希望日がとれてしまって拍子抜けした。小さい船なのだが、クルマを島に持ち込もうという出場者自体が、かなり少ないようである。
娘の小学校も偶然、大会翌日の月曜日が休みだったので、この問題も自然解決。
ワイフも仕事の休みをとり、つづいて飛行機の予約を確保した。羽田〜福岡と福岡〜福江島で往路のみ。帰路はあとで考えることにした。
シンプルなところで課題が残った。
遠征先での不眠。とりあえずいつも使っている枕と毛布をクルマに積みこみ、近場でトレーニング。実家のガレージ内で車中泊したときには、父親にけげんな顔をされた。
「おまえ、なにやっとるんや?」
「クルマで寝る練習」
「あほや」
「真剣なんじゃ」
母親は郵便で睡眠薬を送ってきた。
帰路にも問題が残った。月曜日の午後7時前に博多港に船が着くが、惜しいところで博多発最終の上り新幹線に間にあわない。翌朝の小学校の登校時間までに小田原にもどるには、クルマで終夜の強行軍をするしかない。帰路は三人でクルマという選択肢に自動的にきまった。
11、4種目目のアイアンマン
午後7時前、博多港に上陸。フェリーに乗りこむ前からいっしょだった「福山」ナンバーのエスティマとの車列をキープしたまま福岡都市高速へすべり上がる。エスティマのドライバーもアイアンマン。いいペースで福岡を抜けていく。
最初のサービスエリアで別れてしまったが、そこそこのペースを維持して走る。小田原まで1100キロ。制限時間は娘の小学校の登校時間。
九州の遅い夕暮れがようやく夜にとってかわろうとするころ、関門海峡を通過し本州上陸。山陽道を走っていると雨が降りだした。海のまぎわまでせり出した山の上を走っているので、眼下の瀬戸内の町あかりや島々の光が雨に煙って美しい。
雨のカーブをじゅうぶんに減速して抜けるのでペースが上がらない。が、ペースを上げたところで、長丁場では神経疲労がたまって、けっきょくは遅くなる。事故でも起こせば、人生リタイアだ。アイアンマンよりレギュレーションは厳しい。
眠気はない。不眠症もこういうときは助かる。こまめに水分と補給食をとる。ペースが遅い分、食べる時間を削るしかない。レースであまったカーボショッツを口に含む。いや、レースはつづいている。
半分の680km地点で最初の休憩。給油とドリンクを買って、再スタート。愛知に入り、800km手前の地点でワイフと運転交替。
夜が明け、1020km地点。すでに雨は上がり、太陽がまぶしいぐらいだ。
東に向かって進んでいるので、朝日が眠気を誘う。家まであと80km程度だったが、安全に念をおして運転手交替。
コンビニで朝食を買い、午前7時前、小田原にゴール。九州以来、はじめて目を覚ました娘は、何ごともなかったかのように小学校に登校していった。
かなり疲労を感じていたが、エンドルフィンの分泌させる栓が壊れてしまったのか、横になってもまったく眠れそうになく、目ばかりがぎらぎらして手足をばたばたさせていたが、あきらめて、たまっていた仕事に取りかかった。
12、フルマラソン初挑戦 DNS
アイアンマンへのエントリーが決まった2007年1月の段階になっても、まだ公式なフルマラソン(42.195km)の完走経験がなかった。
大会4ヶ月前の2月。クルマの遠征練習も兼ねて、真冬の京都を初マラソンの舞台として選んだ。
2月2日。
深夜に京都にむけてファミリーカーで出発の予定。
状況は厳しい。
悪化していた風邪は午前をピークに薬が効いてきたのか、頭のぼんやりは晴れはじめた。薬を飲むと風邪をみとめることになるので、気づかないふりに徹しようと思っていたが負けた。風邪をみとめると、かぜん、弱気になる。
ここ1ヶ月ほど悩まされている両膝の痛みも、安静がきいて小康を保ってはいる。これもへたにさわったり動かしたりすると弱気になるので、気づかないふりに徹する。
そしてもう絶対に気づかないふり作戦が通用しなくなってしまったのが、とつぜんの腰痛。
寝返りも打てず、靴下もはけない。ここしばらく腰痛はなく、原因に思いあたるふしがない。風邪が遠因かと思ったが、どうやらフライキャスティングの練習のしすぎか。強風の中、腰の回転を意識してキャスティングをくり返していた。そういえば手首も痛い。
フルマラソン以前の問題として、そもそも大会会場の京都までたどり着けるのか?
同じくフル初出場予定のワイフも、この1週間というもの激務で始発行き終電帰りをくり返している。激務のピークは休み明けとのことだ。のどもとまで、土日は仕事をしたいという言葉が出そうなのが分かる。でも気づかないふり。彼女も膝痛に悩まされ、まともにロングの走り込みができていない。これも気づかないふり。
娘は3キロの部で出場予定だが、親たちが走っているあいだに、知らない土地でひとりでちゃんとできるだろうか? 留守番もできない子である。
「わたしもでるなんて聞いてないよ〜」
と抗議する娘だが、じつは申し込んだことを僕も忘れていて、参加通知書に名前があるのを見てびっくりした。気づかないふり。
今朝はこの冬いちばんの寒さ。東海道新幹線も雪で止まったそうだ。雪か。気づかないふり。
投宿先もまだ決まっていない。気づかないふり。
こうして市原家は、みながみなそれぞれに気づかないふりをかさねながら、京都へ。
2月4日
金曜日夜、京都木津川のマラソン大会にむけてクルマで娘と出発。
ワイフは仕事が終わらないと言って、まだ都内。
西に向かうのに、いったん東京に寄る。オペラシティで彼女をピックアップしたのが深夜1時。
「ぽんおとーさん、体調は?」
「ヘレン・ケラー。腰痛、風邪、おまけに鼻炎っぽい」
午前7時、三重県の名阪国道。一度も目を覚ますことなく、ぐっすり眠っていたワイフと娘を起こす。
車窓には雪化粧の山々。
タイムスリップしたみたい、とワイフが感嘆していた。サービスエリアで娘は雪遊び。
忍者、伊賀の里で一般道におりて、マス釣り場をめざす。しかし峠をひとつ越えなければならない。チェーン規制にはばまれ、ようやくノーマルタイヤで越えられそうなルートに行きあたる。が、はじめての雪の峠。這うようにゆっくり進んだ。
南京都の湯船森林公園マス釣り場に着いたのは午前9時半。昼過ぎまで娘とマス釣りをするが、気温2度、水面に氷が張っていた。
寒さのせいか、魚は深いところに滞留していて、なかなか食わない。深層狙いと超ショートバイトをかけるコツをつかんでからは、ぼちぼちと釣れはじめて、ルアーとフライでどうにか20尾ほど。しかしながら塩焼きサイズより小さく、丸干しサイズ。
しかも寒くて元気がないのか、釣りあげるとき、ぴちゃぴちゃともいわない。20センチ級は「ぴちゃぴちゃ」、30センチ級だと「ばしゃばしゃ」、40センチ級で「ぼごぼごっ」。水音で釣り上げる魚の大きさが分かるものだが、無音というのははじめての体験だった。あえて言うなら、ぬぼー、か。ましなものでも、「ぴちゃぴちゃ」よりもっと、か細い「ぴちぴち」。
僕たちが入ったのはファミリーむけのライトエリア。本湖の方は大きいのがいるそうだが、難しいのでやめといた方がいいと言われた。
水がクリアーなので、深層で手もとにアタリの伝わらない超ショートバイトを実感できて勉強になった。
それにしても、南京都の山あいの清い水と空気は最高だ。ヒルクライムのチャリダーが多かった。
奈良の宿に着くと、熱がでていた。
夕食までのあいだ、平城京なんかを見物しようと散歩したのだが、平城京のあるはずの場所にはイトーヨーカドーがあった。たかだか散歩なのにクツズレをおこし、おまけに悪寒、腹痛。夕食からはあまり記憶がない。深夜、悪寒で目覚めた。口腔の砂漠。
朦朧とした浅い睡眠と覚醒をくり返す。夜が長い。
このままではマラソン大会はDNF(ドゥーノットフィニッシュ)どころかDNS(ドゥーノットスタート)の危機である。というよりマラソン以前の問題で、DNW(ドゥーノットウォーク)であり、へたをするとCNK(キャンノット帰る)、つまり家まで帰りつけないかもしれない。
午前6時、ワイフと娘が目を覚ました。
2月5日
前日、「DNSの危機」と書いた。
危機、というぐらいだから、読んだ人は「きっとなんだかんだいって、ちゃんとスタートして完走したんだろう」と予想されたことと思う。僕ももちろん、完走はともかく、スタートぐらいはして、でもなんだかんだいって、ぐだぐだ言いながら完走しちゃうんだろうな、ぐらいに思っていた。
大会当日の朝。目覚めて、お互いの顔を見るなり、指さして吹きだす家族。
みんな顔が壊れ。僕の顔はむくんで二重のまぶたが、ひさびさの一重に。(昨夏の珠洲トライアスロンのスタート前以来・・) 皮膚の下に毒素みなぎる。
朝食のときワイフが言った。
「言ってもやるんだろうけど、でも、やめる勇気っていうのも時には必要っていうよね」
「うん、それ、大会の参加要項にも書いてあった」
味噌汁をすする。沈黙。おそるおそる訊ねるワイフ。
「やめる勇気、わいてきた?」
「それについて考えていたんだけど、やめることに対して、じつはまったくもってやぶさかでない。ここまでやぶさかでないっちゅうのも、どうかと自省しているとこ」
大会のスタート時刻。僕たち一家は、じつにやぶさかもなく、奈良公園で鹿とたわむれていた。
ワイフも娘も一家まるごとDNS(ドゥーノットスタート)。というより、会場にも行っていない。なんせ奈良公園だ。
娘の頭にはご当地グッズの鹿ツノのカチューシャがのっている。
そして、マラソン大会参加者たちが一生懸命走っているとき、われわれは伊勢湾岸高速のパーキングで、強風に翻弄されるスリリングな観覧車にうち興じていた。
13、漕ぐ。180.2km
五島列島、福江島。
海を見ながら2周回するバイクルートは、ゆるやかながら、しつこくつづくアップダウン。沿道には途切れることのない応援の人々。先行する主将のピンクジャージを視界にとらえることだけを考えて、自転車のペダルを漕ぎつづけていた。
スイムから自転車にトランジットして、すぐ、メーターが動いていないことに気づいた。
クランクもカタカタとガタが出ている。予定より緩むのが早い。このままいくと、最悪の場合、フロントのギヤが変速できなくなる可能性が頭をよぎる。クランクに負荷を与えぬよう、一定のクランキングを意識して走った。主将に追いつきたくて焦る気持ちが強かったが、180.2kmの長丁場、じっくり走るにはかえってよかったかもしれない。
スイムは予想以上に時間がかかってしまった。これまで出た3度のトライアスロン大会では、スイムバトルは最初の数百メートルは激しいのだが、ほどなくすると活きが悪くなってあきらめた魚の群れみたいに沈静化していたものだ。今回も沈静化を待っていたのだが、1kmをすぎても1.5kmを過ぎても、バトルがつづく。たえず誰かに足をつかまれ、横に並ばれるとなぐられ、ゴーグルがはずれそうになったり、前に近づけば蹴られたり。体力温存泳法をとっていたので、なるべくバトルを避けようとしていたが、ペースを落とせば後ろから追いついてきた集団に文字通り引きずりおろされ、蹴り落とされる。
一度、水を飲んで、ほんとうに溺れそうになり、完全にビビってしまった。
そこで気づいた。これは今までのトライアスロンとは違う。最強の猛者が集う、アイアンマンなのだ、と。バトルの沈静化なんて、ないのだ。
スイムは湾内の1.9kmを2周回するコースである。
2周回目はあえて大きくコースをはずれて、ひとり旅をきめた。ときどき平泳ぎも交える。完全な戦線離脱。1周回目よりはるかにラクだったが、当然タイムは予定より10分以上遅かった。
スイムが遅かった分、中団スタートとなった自転車では150人ぐらい抜いて、20人ほどに抜かれた。自分とまったく同一の自転車がたくさんいて、かなり長い行程を同一自転車3機の千鳥編隊で走った。しかし下り坂になって足をとめると、なぜか僕の自転車が明らかに遅れる。同一の自転車なのに、何のちがいだろうか?
自転車コースも島の西側山岳地帯を海沿いに2周回する。コースが折り返しになっている区間もあり、先行者との距離が分かる。笑って手を振る主将とは15分ぐらいの差があった。
2周回目の折り返しでも、ほとんど差は縮まっていなかったし、やっぱり主将は笑っていた。
彼と合流したらいっしょに休めばいいやと思って、ずっとトイレも我慢して休止なしで走ってきたのだが、まさか主将は休憩なしで走りきるつもりか? そう思ったとたん、がくっと足が動かなくなり、今回はじめての失速。抜いた連中に次々と抜き返され、ますます消沈。
道路ばたに置かれた仮設トイレに寄ろうと自転車を降りたら、足が上がらなくてコケた。
スペシャルエイドで食料を受け取り、食べたら、うれいしいことにパワーが盛り返してきた。抜かれた連中を再び抜き返し、自転車のゴールにむけて加速をつづけたが、最後まで主将の後ろ姿を見つけることはできなかった。
自転車のゴールポイントでは、自転車を降りるときに、やっぱりコケそうになった。かろうじて踏みとどまると、いっしょにゴールした人がコケた。
14、フルマラソン再挑戦
最初のフルマラソン挑戦はスタートに立つことさえできずに終わり、2度目の挑戦は春になった。
静岡県掛川市で開催される新茶マラソン。茶畑とため池のつづく丘陵地帯を走り、エイドステーションでイチゴやキウィも食べられる。
4/14
4月の第2土曜日。雨の予報のはずが、起きてみると晴れ。天気予報も晴れに変わっている。
初フルマラソンの舞台となる静岡県掛川にむけてクルマで出立。
午後1時半、大会会場着。ここはヤマハが運営する「リゾートつま恋」というレジャー施設。
レーシングカート場、アーチェリー体験、パターゴルフ、乗馬、プール、釣り池のほか温泉、ホテルもあり、場内周回道路はなんと一周5キロ。(ワイフが参戦する10キロレースのコースでもある)
広大な場内の移動に、エンジンのゴーカートをレンタル。ハンドルには「YAMAHA」のロゴ。バックもできる。
娘の運転で大会本部へ。前日受け付けを済ませ、バンジートランポリン、草そり山、釣り池をまわった。
つまこいを出たあと、25キロほどクルマを走らせて磐田市へ。遠州灘からの強風が吹きすさぶ、今錦浦川沿いのウナギ屋「しまごん(島権)」で遅い昼食。国道からはずれているので、ほとんど地元の人しか来ない良店で、ぷりぷりの特上うなぎが1600円。
食後はウナギ屋に併設しているマス釣り池でフライフィッシング。(ウナギの写真の窓の外に見える池)
釣り客は3人しかいなかったが、午後5時からはみんな撤収してしまい、ナイターは僕ひとりに。
年初にイトウを釣ったとき以来の貸し切り状態。1時間で11尾の好調ペース。型も引きも、そこそこよい。
ニジマスとホウライマスで18尾。
午後8時撤収。
この池の横を流れている今之浦川は、じつは有名なバスフィッシングスポット。そのまま車中泊して、翌朝はバス釣りをしたかったが、マラソン大会会場近くにも良い池がたくさんあったので移動を決めた。
磐田インターチェンジがいちばん近かったのだが、なんとなく気になる池をまわってみながら市道を走っているうちに、隣のインターチェンジに着いた。
「ああああーっ!!!」ワイフが叫んだ。「ここ。わたしが連行されたとこだ!」
ETCゲートをくぐる手前でクルマを左に寄せて止まった。
「ほんとにここだっけ?」
「一生忘れないよ、袋井。ほら、あそこの高速警察隊の詰め所・・。覚えてないの?」
「こっちは場所の名前見る余裕なかったからなあ」
そのはずである。僕はそのとき、時速200キロで走りつづけてきて、きんきんに熱くなったオートバイを茂みに隠し、妻の900ニンジャがとまっていた警察詰め所にむけて匍匐(ほふく)前進していたのだ。
「とりあえず記念写真でも撮っとこうか?」
「そうだね」
「しかし、ETCレーンの手前で家族並んで記念写真って、かなりヤバくないか?」
「うん。かなりヤバい。やめとこか」
「記念写真っていっても、記念するようなことでもないし」
とりあえず詰め所の写真だけ撮った。
高速道路を走りながら、
「ほんとに袋井だっけか? なんとなく掛川(※隣のインターチェンジ)っていうイメージがあるんだけど」
「袋井だって」
「だとしたら、すごい偶然だ。釣りのあと、ほんとはまっすぐ磐田インターのつもりだったのに、」
まるで吸い寄せられるように、僕たちは袋井にたどり着いた。
雨の予報でマラソン大会は当日入りにしようということになってたのに、晴れたので急きょ前日入りし、少し離れた釣り場に行き、もよりのインターチェンジに行くはずが、夜道を池や温泉を探して走っているうちに、袋井。
そもそもまっとうに宿をとっていたら、高速道路のパーキングで車中泊しようなんてこともなかったから、こんな夜に見知らぬインターチェンジに入ることもなかったろう。
前日の結婚10周年記念日をないがしろにした罰として、ワイフに高級旅館でもおごらせようかと企んでいたのだが、ちょっと待て・・、
「もしかして、袋井で捕まったの、10年前のちょうど今日じゃないか?」
えっ、と顔がこわばるワイフ。
「そうだよ。だって昨日が記念日だろ。ってことは結婚式した日。その翌朝、寝ゲロでかぴかぴになった頭でホテルを出て、そのまま四国ツーリングに出発した。つまり今日だ」
しーん。
「これは偶然じゃない。符牒だよ。メッセージだ」
「どんな?」
「まだ分からない。でも、すこし警告っぽいシグナルが含まれていそうな気がする。なんせ警察だしね」
すべての偶然がたとえ必然の結果だとしても、それでも奇跡は存在する。人がそれに意味を与えずにはいられないからだ。
小笠パーキングエリアにクルマをすべりこませた。小さなパーキングで売店はすでに閉まっていた。
「まあ、いっか。さっきコンビニ寄ったしな。あるんだろ、食べ物?」
「あ、買ってない」
僕の煙草と酒しか買ってこなかったとワイフは言った。
何考えてんだよ、と、思わず声を荒げてしまった。言ったあとで、何考えてんだよ、ときつい言い方をするほどのことでもないとも思った。怒りは自分で火をくべていくものだ。
パーキングには、いくつか自動販売機があったが、
「さっきのコンビニで、細かいのぜんぶ使っちゃった」
とワイフ。自販機も使えない。
「ふつうさあ、旅のときは万券だけにならないように気をつけるよな」
また声を荒げてしまった。不穏な空気を敏感に感じとった娘が、わざとらしいほど明るくふるまいはじめた。
車内にもどって横になると、ほどなくワイフと娘の寝息が聞こえてきた。
酒を二本飲んでも眠くならず、ウイスキーをちびちびやりながらサンルーフを細く開けて夜風を入れた。星がきれいだった。
さっきワイフは「袋井」という場所を覚えていたが、僕は覚えていなかった。
反対に、10年目の同じ日だということを僕は思いだしたが、彼女はそうではなかった。
小さなことだ。しかし以前は感じなかった小さなズレが少しずつ目に見えるようになってきている。生活でも、旅先でも。
夕食、小銭。なんでもないことだ。どうにでもなった。飯を食いたいのなら、高速を降りてデニーズにでも行ったっていいし、小銭がなくても10キロも走れば終夜営業のパーキングだってある。そうしなかったのは、苛立っていた理由が、ワイフの反応を含めたこのささいなズレへの怖れだったからなのかもしれない。
気づかないぐらい小さな小さなズレ。見えないほどのヒビ。
でも、グランドキャニオンほどの断裂だって、最初はみんなそうだったのだ。
そういえば、袋井インターを抜けて高速道路を走っているとき、ワイフが楽しそうに言っていた。
「携帯電話なんてなかったのに、あのあと、どうしてぴったり会えたんだろうね」
「携帯ぐらいあっただろう?」
「なかったよ。世の中にはあったかもしれないけど、すくなくとも私たちは持ってなかった」
「浜名湖サービスエリアで再会。そこんとこは、よく覚えてるよ」
「どうして浜名湖にいるって分かったの?」
「きみの姿は見失なったけど、あのあとパトカーを追尾してやったんだ」
「まさか逃げた男が真後ろにいたとはね」
たてつづけにトラックの光が邪魔そうに窓の横を通りすぎては遠のいていった。メーターは時速80キロを割りこんで70キロ台をさしていた。
ワイフが10年前に伴侶として選んだのは、ちょうど10年前のこの日、この場所を、風に刃向かって懸命に200キロで走っていた男だった。茂みを匍匐(ほふく)前進していた男だった。少なくとも、小銭のことで文句を言っている男ではなかった。けっして。
4/18
車中泊では、けっきょく眠れず、飯も食えないので朝5時前にパーキングエリアを脱出。
掛川インターチェンジでおりて早朝の市街地のコンビニへ。
ワイフを起こすと、えええっ、ここどこぉ〜? 本気で爆睡していたようだ。このハードな神経がうらやましい。
食料を調達し、掛川近辺の野池をクルマで探索。5つの池をまわってみたが、市街地周辺は調整池が多く、釣りができそうな雰囲気ではないし、水面にも生体反応が感じられなかった。
大会駐車場になっている小笠山運動公園近くにクルマを移動し、周辺の野池探索。
前年の秋に一度釣りをしたことのある池に行ってみたら、フローターで水面に浮いて釣りをしている先客一名あり。
さっそく釣り道具をセットし、朝飯を食いながら娘とフィッシング。
娘はルアー。僕はフライ。フライでバスを狙うのは、はじめてだ。遠征前に巻いた白のウーリバッガーは前日のマスには好調だったが、この野池ではまったくもって生体反応なし。
7時半で納竿。大会駐車場は1.5キロ程度の距離で、すぐ着くはずが、マラソン参加者の渋滞に巻きこまれた。なんせ4300人ものランナーが集結しているのだ。
大会メイン会場まではシャトルバスで20分。途中、釣りによさそうな野池がいくつもあり、窓から池ばかり見ていた。
僕とワイフは前日受付を済ませていたが、娘の1kmランは当日受付のみの対応。ぎりぎりに着いたら、すでに定員で締め切られていた。朝っぱらから釣りなどしていたせいである。
スタートは長蛇の列になる。予想タイムごとにプラカードが立っていて、自分のペースに合せてスタート位置を決めるらしい。なんせ僕ははじめてなので、どのへんに並べばいいのか分からず、「とりあえず完走」というプラカードを探すも、そんなものはなく、列の最後尾ははるか遠く、歩くのも面倒くさかったので、すぐ目の前にあった「3時間〜3時間30分」の集団のなかほどに立った。
なんか前の方が、ざわざわしているなあ、と思ったら、なんとスタートが切られていた。
スタート後から5キロまでは、だんご状態でペースが遅いが、後半に2つの峠越えを控えているので、このぐらいで余力を残しておいた方がいいだろう。
10キロ地点。だんごもばらけてきて、トライアスリートらしき2人とトロイカ体制で抜きつ抜かれつ切磋琢磨しながら、少しずつ前にでる。茶畑の丘陵地帯。小さなアップダウンがつづく。左ももの後ろ側の筋肉に小さな違和感を感じる程度で、調子はよい。
15キロ地点。一度、クツヒモがほどけた。すわって結びなおしたが、ほどなくトライアスリート2人に追いついた。ペースはかなり自重しているつもりだったが、右くるぶしと右脇腹が痛みだしたので、さらにペース自重。やがて2人から引き離されはじめた。
20キロ地点。痛みは解消。いったんは引き離されたトライアスリートたちだったが、抜いたあと、彼らはペースダウンして後ろに消えてしまった。自重した一定のペースを刻んでいる。良好。
25キロ地点。ひとつ目の峠越え。6キロにわたって延々とつづいた上り坂。かなり自重したつもりだったが、足の筋肉にダメージがではじめた。下りの急坂でキロ3分ちょっとのハイペースで走ってみたが、息はきれない。スタミナより足の筋肉に不安要素。
走りながら苦手な算数の計算。42÷3=?? んーと、んーと、14。
28キロポイントを越えたら、つまり残り3分の1になったら、自重を解放して、いっきにゴールまで走り抜こう。
それにしても、ここのところ、ずっと、変な人たちに囲まれて走っている。
白髪まっしろのおばちゃん。
競歩みたいな走り方の小さいおばちゃん。
きょえー、きょえー、とリズミカルに大絶叫しながら走っているおっちゃん。
よれよれのトレパンとシューズで、体の半分が麻痺で動いていないおじいちゃん。
ミュージシャンなのか、アフロ頭で枝みたいに細いアンちゃん。
茶髪のぷりぷりセクシーねーちゃん。
ずっと上を向いて走っている長身のあんちゃん。(この人のクツはイトーヨーカドーで買った、以前の僕のクツと同じ)
激しく脱力したが、ここは自重である。
待ちに待った28キロポイントを越えたが、自重がきいて好調。息ぎれもなし。
念には念をおしてもう1キロ。自重のダメ押し。
そして29キロポイントの看板を過ぎてからの第二の峠越え、ATフィールド全開ギヤチェンジ、肉体のケモノを解き放って、ぴゅーーんっ!
うわー、めちゃめちゃ、はえー!! わはは、みんなおさらばー、と快調に疾駆。
30キロ地点。どうしたんでしょうイチハラ選手、おおーーっと、ブレーキかァ???
ブレーキなんて、ないって。
ギヤチェンジからわずか1キロで足の筋肉繊維は完売御礼。乳酸満員御礼。
だからギヤなんて、ないって。
余力を残しておいたと錯覚していたのは、あくまでスタミナ。足の方は麻痺していて状況が分からなかった。ほとんど攣(つ)っている。一歩でもへんな動きをしたら、攣る、おわる。
さっき快調に抜いた人たち全員に抜き返され、恥ずかしさも完売御礼。どうにか給水所にたどりつく。
当初はフルーツステーションで、フルーツを思いっきり食ってやろうと思っていたのに、純真な応援の人たちが「がんばってください!」と言って渡してくれるフルーツを、おかわり、おかわり、おかわり、おかわり、と延々と食いつづける雰囲気でもなく、足を引きずりながら再出発。
35キロ地点。もうロボット。誰の足か分からない。感覚がまったくなし。一度、軽く屈伸をしようとしたら、まったく曲がらなくてびっくりした。こちこちの棒みたいな足を、棒みたいに動かす。竹馬状態、ちくばの友。
長い上り坂。落伍して歩きはじめる者が、またひとり、またひとり。サバイバルだなあ。次は自分か、と思った。救急車も通った。乗りたい。ふと足を見ると、走ってない。
走れ! と脳は指令を出すが、足はまったくこれを無視。すごい。もう一度、走れ! の電気信号。足は沈黙。誰の足?
命令無視は軍法会議だっ、と、脳が足に言ったが、無反応。いや、これは走っているのだ。きっと。どう見ても歩いているが、足は足でたぶん走っているのだ。
白髪おばちゃんに抜かれ、アフロに抜かれ、競歩おばちゃんに抜かれ、ほどなく視界から消えていく。
セクシーねーちゃんにまで、ロング茶髪をさらさら揺らして抜かれたときには、脱力を越えて欲情した。
止まりそうになっては歩き、止まりそうになっては歩き。
やがて背後から、怪鳥のような無気味な絶叫が近づいてきた。
きょえー。きょえー。きょえー。きょえー。
ああ、ついに絶叫マンにまで・・。
と、そのとき、
「ハーモニクス反転! ありえません。足が、再起動しています!」
パニックに陥る脳内司令部。
怪鳥の声が近づくのが止まった。引き離すことはできなかったが、一定の間隔で後ろに絶叫を聞きながら40キロ地点通過。
残り2キロ。絶叫マンの雄叫びが、いつしか、ここちよいリズムとなって耳に届く。どんな応援よりも、これ以上に僕の足を突き動かす原動力はない。メトロノームのように、呼吸も、足の運びも、絶叫に調和していく。
ゴールまで最後の激坂。
みんな体が傾いて、足を引きずっている。僕も体が傾いて、足を引きずっている。背後から絶叫。歪む風景。
ゴール500m手前の小さなトンネル。出口のまばゆい光に、傾いた体を引きずって走る人々のシルエットが浮かびあがった。とつぜん、滝のように涙があふれでてきた。
自分を自分でほめてあげたいと言って泣いたマラソン選手を見て寒気がするほど嫌いだったのに、なんたることか、自分が泣くとは・・しかも、まだゴールしたわけでもない。何の脈絡もなく、大量の涙だけが出てくる。意味不明。理解不能。
脳内司令部は混乱しつつ、事態の収束に努めるが、もうほとんど大泣き。
頭の中で何が起こってるんだ????
ゴールまで200m。激坂。
南極アムンゼン隊のように、ゴール目前で動けなくなって、へんに屈曲した姿勢で立ち尽くしているランナーもいる。足が攣っていて、かがむことさえできないのだ。そして周囲の誰もが、同じ危険を感じていた。
泣きながらカニ歩きをした。もう、まっすぐ歩けなかった。横向きに歩きながら坂を越え、芝生のゴール花道へ。
どこで見ているか分からない妻子にカッコわるい姿は見せられぬと、まっすぐ走ろうとしたが、無理だった。ぜんぶ使い果たした。
「体傾いて入ってきた人がいると思ったら、おとーさんだった」
案の定、そう言われた。
ワイフは10キロの部を、1時間1分で完走していた。
フルマラソンの総合優勝は2時間34分52秒のトヨタRC。これからほぼぴったり1時間遅れて、僕と絶叫マンはゴールした。(3時間35分26秒)
「セクシーねーちゃん見た?」と、ワイフに訊いた。
「見た」
「白髪のおばちゃんは?」
「見た」
「競歩のおばちゃん」
「見た」
「アフロは?」
「ミュージシャンっぽい人のこと?」
みんな僕の少し前に、無事ゴールしていたそうだ。
「世の中、なめてた。出直す」
「へえ。また出るの? マラソン」
いや、もうしばらくはこりごり。
15、走る。42.195km
自転車のゴール地点では、中学生の男の子が目の前に出てきて、
「バイク、もらいます」
と言った。
通常のトライアスロン大会では、自転車は自分で自分の番号の書かれたラックに置くのだが、アイアンマンでは「バイクキャッチャー」というボランティアが自転車を受け取って保管してくれる。
主将はバイクキャッチャーのことを忘れていたのか、なんだか知らない中学生に自転車を取られると勘違いして、渡さないぞ、とむんずと奪い返したというから可笑しい。
運動服を来たボランティア女子中学生の素晴らしい連携で、僕のラン用品の入ったバッグがすぐさま用意され、それを抱えた男子中学生が着替えのテントに僕を案内しながら、「お手伝いします」と言う。
見れば、ひとりの選手にひとりの中学生が世話人として付き添っている。
ところが中には着替えとは違うテントに誘導されていく選手もいる。あとでワイフにおしえてもらったのだが、これは自転車のルール違反をした選手の「お仕置き部屋」だったそうだ。
トライアスロンの自転車走行では、ドラフティングルールといって、あくまで独力で走ることをルールづけられている。前の自転車を風よけに使ったりするとドラフティング違反として、規定された反則タイムをこなすために、お仕置き部屋で過ごすことになっている。
中学生の甲斐甲斐しい世話を受けながら、この島では、なぜ子どもたちがこんなにまっすぐ育つのだろう、と、ちょっと泣けてきた。
ワイフの話では、バイクキャッチャーのひとりが選手の投げた自転車を受け止められずに倒してしまったこともあったらしい。選手の方も疲労で朦朧と笑っていたし、問題は何もなかったのだが、あとで、いかにも恐そうな先生が中学生たちを整列させて、喝! と、やっていたそうだ。その日のために、何度も何度も練習してきた裏の努力を感じたとも言っていた。
「もう、完全に体育会系の部活だったよ」
関東だったら、これだけの子どものボラティアは集まるだろうか? 無償奉仕でこんなに厳しくやられて、子どもの親が黙っているだろうか。この島では、先生も、親も、町の人も、大人がちゃんと大人として機能している。
着替えテントを出ると、知った顔が並んでいた。ワイフと娘は「走れ〜」と言わんばかりの顔だったが、右足のブリッジが痛んだので、痛みがとれるまでゆっくり行こうと思い、
「あかん、走れんわー」
と言ったら、横でビデオを構えていたワイフのお父さんが、
「きつかったら、やめていいんだから。走らなくていいんだからな」
と言ったのが、なんか可笑しくて元気がでた。
痛みがひくのを待ちながら、ゆっくりと競技場内の折り返しルートを進む。ここも先行者との距離差を確かめることができるようになっている。主将とすれちがった。やはりすごい笑顔だった。
痛みはなかなか引かなかった。焦らなかったのは、経験上、このままゆっくり走っていれば、おそらくは引いていくタイプの痛みだという感じがしたからだ。4月の初フルマラソン達成後、課題としてスタミナよりも脚部の持久力(耐久力)の必要性を痛感し、短いあいだだったが、やれるだけの対策は施してきた。箱根駅伝ルートの山岳ランを数回行ない、1日30kmの山道を2日間歩く飯能ツーデーマーチにも参加した。そのときに生じたさまざまな症例が、対応への自信となっていたことは間違いない。
心拍が異常に高かった。ゆっくり走っているつもりが、140を切らない。
最初の10kmは120から130の穏やかなペースを意識するのだが、予想以上に疲労しているのだろうか。次々と、ほんとうに嫌になるぐらい多くの人たちに抜かれたが、心拍が130以下になるまで、じっと辛抱して走った。
案の定、10km地点近くになって、足の痛みが引き、心拍も落ち着いてきた。ペースアップが可能になり、だいぶ抜かされにくくなった。とはいえ、あいかわらず一定ペースで抜かれる。抜くのは元気が出るが、抜かれるのは、やっぱりがっくりくる。
42キロを走るのは2回目だ。一度は経験したから、42キロに対する恐怖感は薄くなったとはいえ、長いものは長い。ひとりならやめてしまうだろう。沿道の応援が背を押す。
「イチハラさーん、がんばって〜」
若い女の声に、びっくりして振りかえって見ると、知らない女の子。
その後も、ときどき名前を呼ばれた。この地区の人たちは選手名簿を持っていて、ゼッケン番号をたよりに名前を見つけているらしい。
試しにゼッケンをシャツの下に隠してみたら、
「名前分かんないけど、かんばって〜」
「は〜い! がんばりま〜す!」
と手を振ると、「きゃー、かわいいー!」とおばさん連に大ウケである。足に力が入る。
気温はそうとう上がっているようだ。エイドステーションごとに、柄杓(ひしゃく)で頭から水をかけてもらっている選手がほとんどである。僕は走っていると体が冷える体質なのか、暑さを感じない。以前、他の人と同じように水をかけてもらっていたら、足がふやけて皮膚が破れ、歩くのさえきつくなったので、今回は徹底して毎回、水かけを断る。
「ごめんなさーい。水かけないで〜! 寒がりなんで!」
と言うとボランティアの人たちは、みな笑っていた。
途中、海の見える道のカーブで、ぽつんとひとり立った初老の女性が、選手ひとりひとりの顔をのぞきこむようにして、レースの白い手袋の手をさかんに叩き、迫真の応援をしていた。2周目のときも女性は同じ場所で同じように応援していた。炎天下、女性は何時間もここに立って、途絶えることない選手の列にむかって、ひとりひとり力いっぱいの応援を放っている。誰かのために、僕はそこまでできるだろうか。
アイアンマンだ。そう思った。
五島の人たちも、中学生も、みんなアイアンマンだ。
ヤンキー車の若者たちまで、「鉄人〜! がんばれー!」とクルマから身を乗りだして応援してくれる。すごい島だ。他人を応援できることは強い。ぜったいに強い。
16、その先の自分へ
アイアンマンレースをまっとうするには、かつて先輩アイアンマンが言っていたように、「その先の自分」を突き詰めていくしかない。
特に苦手なランが最後にあるだけに、苦手意識をどこまで軽減できるかが重要だった。
不安は正常な歯車さえ狂わせる。不安を撃退すること、それも、単に走れればいいのではない。「もうだめだ」というところから、だましだましでも42キロを進める能力を身につける必要があった。
レース前月の5月の日記はタイトルを並べるだけでも、距離克服へ追い込んでいる様子が分かる。
5/3 筑波サーキット8時間チャリ耐久
5/8 箱根登坂ランニング3回目
5/10 嵐の風雲とバトル・・時速64キロ
5/13 チャリ+ラン合宿210km
5/21 飯能ツーデーマーチ 60km
5/25 箱根を重いギヤで登坂成功
5/26 雨でトレッドミル最長記録13km
5/28 四度目挑戦 箱根ランニング登坂達成
5/31 豪雨のあいまに箱根駅伝四区、五区
6/2 アイアンマン対策実戦スイム練習会at金町
6/3 江戸川サイクリングロードは馬まで歩く。チャリ180km
そして出発前日。
6/12
アイヤーンマンにむけてチャリの最終調整。
180kmを走り抜くためのテストがじゅうぶんではない。クランクの緩みが最大の不安要素。最後まで別のチャリに登板変更するか迷った。写真は実戦装備で、空母搭載直前の状態。
また、一日かけて仕事用の機材および撮影機材のチェック。
モバイルオフィスの電源、各通信機器、ソフト類の動作チェック、ファイルの移管など。
レーシング・ゴーグルを買った。今まではホームセンターでテキトーに買ったゴーグルばかりだったが、はじめてスポーツショップで相談して買った。掛川の初フルマラソンの前に、シューズを選んでくれた女性店員がいたので、フルマラソン完走の報告がてら、アイヤーンマンの相談をして勧められたゴーグルである。
「フルマラソンのつぎは、オープンウォータスイムなんですか?」と訊かれ、
「アイヤーンマンなんです」と応えると、
「えっ、アスリートだったんですね」と言われ、アスリートではなくって、バトルツアラー・・と、言ったところで分かってもらえるはずもなく。でも、ほんとに、アスリートではなく、バトルツアラー。
レース当日の予報は雨。視界のきかない中で、遠方の島をつねに方角確認しながらのレース展開。万が一晴れてもぎりぎりだいじょうぶなラインのレンズカラーで、水面抵抗の少ないゴーグルを選んでもらった。でも、それはただの雑誌的言説。
本音、僕レベルのスイマーにとってはゴーグルの違いなんて、たぶんどうでもいいことなんだけど、とにかく、この女の子に託宣に身をゆだねるのがだいじ。フルマラソン以来のゲンかつぎ。どの人間にも、ある特殊な方向性において相性のいい感性は存在する。相手が若い娘だろうが、知識があろうがなかろうが、言ってることがおかしかろうがなんだろうが、さらに経験なんかさておいて、とにもかくにも、こいつの言うとおりにする、と腹をくくる。ただ、我流人生の直感。
この一日、なんだかんだいって仕事に追われ、時間に窮していたが、1時間だけスポーツクラブに。さすがに最後の3種目トレだろう。スイム1000m、チャリ7km、ラン5km。
ランは5km人生最高速の18分13秒をマーク。仕上がりは最高。
家に帰るとゴミが気になる。曜日ごとのゴミを、貼り紙をつけて仕分けしておく。小田原はゴミを出しそびれると、一ヶ月泣くことになる。僕のいないあいだが心配だ。
夕食は娘とふたりで大好きな居酒屋・大学酒蔵へ。シメはサザエのつくり。ほとんど、バトルロワイヤルってな感じのサザエ刺身。
おやすみ。
(アイアンマン・ジャパン225km+五島列島クルマ自走往復2600km)