トライアスロン初挑戦in大島〜3


 スタート7分前、大会運営者からコースの変更が告げられた。
 2周回1500mのところを1周回750mへ。「えーっ!」と落胆とも抗議ともとれる声が周囲から上がる。
 私は、「ほらあそこに岩が出てる。危ないな」とか「750mとか中途半端なことやめて、いっそ、やめる勇気をもとうよ」とか「やるならやるで早くやりましょうよ。足が血だらけになっちゃう」とか、すでに異常な精神状態のもと、にやにやしながらのゴーグル顔で呟いていた。
 写真では、後ろを振り向き、ゴーグルをした男の姿がはっきり捉えられている。
 首元から、へんなひもが出ている。スウィムキャップも目深にかぶりすぎだし、しかも左右反対?
 おまけに手のかたちを見てください。道具だけ立派なものを揃えてしまって場違いなところに来てしまった初心者のやるせない恥じらいがよく出ています。
 当初の計画では最後列からスタートしてバトルを避けるはずだった。どう見ても最前列近くに押し出されている。
 大会運営者が言った。
「コースのイン側、つまりこの防波堤寄りは気をつけてください。先端で渦ができていまーす!」
 見た。ほんとに渦が見えた。
 アウト側に人が密集し、有利なイン側が、確かにがらがらである。私が立っているのは、みごとにインコース。
「やばくねぇスカーここ。やばくねぇスカーここ」
 と呟きながら私が後ろを見ているのは、この期に及んでもまだ逃げ道がないか探しているのであるが、後ろはびっちりとつまっている。スタート時間は刻々と迫る。波で運ばれる石が足に当たって、泣きそうに痛い。
 防波堤の上でTBSのカメラが波をかぶっている。TBSって大島の放送局じゃないよね。東京でもニュースなどで放映されるんだろうか。そういや、大島は東京都だ。しかも島内のクルマは全部、「品川」ナンバー。景観とイメージとの不釣り合いが印象的だ。
 なんて追想している場合じゃなくて、時は迫り、スタートの合図とともに、周囲が走りだした。
 白兵戦の波しぶき。
 人間の放流。
 大きくなって還ってこいよ。



 慰めとも聞こえるギャグをひとり発しながら、歩いている男の姿をカメラはしっかり捉えている。TBSが映していないことを祈る。いい恥さらしである。
 波が来たので腹ばいに飛びのった。
 人間が波に逆らって遡上しています。みごとな生命の躍動です。いやぁ、じつに感動的。
 ・・と、自然番組風の解説を入れながら、頭を出して平泳ぎしている男の姿をカメラはしっかり捉えていた。





 お? 気づくとまわりに人がいない。
 平泳ぎをやるやつは遅いし幅をとるから嫌われるというが、なんだろ? 私のギャグに恐れをなしたか?
 と思って後ろを振り返ると、すごい飛沫をあげて一群が。おまけに先頭の男、バタフライだ。すごい迫力。なんでバタフライやねん。バタフライのできない私は強い威圧を感じた。
 このまま平泳ぎをつづけると呑まれるラインだ。イン側に押しやられ防波堤の渦の藻くずと消えるのもいやだし、平泳ぎをやめてクロールをはじめた。
 が、まもなく周りが飛沫だらけになった。昔、NHKの自然番組で観たサケの遡上の水中映像に似ている。
 ごぼごぼっと泡が流れ、むちむちぴちぴち律動して先を争う群れの体側。
 足に誰かの手が当たった。触らないでお願い。バタ足で払う。
 今度は腕に。触らないで。肘を張って押しもどす。
 そう言いながら悪気はないんだけど、さっきからずっと前の人の足に私の手が当たっている。
 波はざんざんくるし前は見えないし、だんだん邪魔になってきたので前に出ようとしたら、ちょうどアッパーカットみたいにがつーんと相手のキックが私の顎に決まった。ちょっとゴーグルがズレて、へらへらーっといい感じ。
 おぬれ!
 次の瞬間、私は彼を凌駕していた。どうやったかはよく覚えていない。
 誰かに足をつかまれた。鈍い感触。蹴りが決まった。
 腕をつかまれた。鈍い感触。エルボーが決まった。
 最初のブイを越えた。
 ちょっと頭を上げて見ると、第二集団にいる。10人ぐらいの先頭集団とはそれほど離れていない。
 ペースを上げてみた。もう誰も触ってこない。だいぶバラけて安定してきたようだ。
 二つ目のブイをまわる。コースロープがないので、自分でブイの位置を確認しながら泳がなければならないのだが、波に遮られて、なかなかブイが見えない。
 距離は半分を越えた。ちょっと苦しくなってきてペースをゆるめると、ふたりほど並んできた。
 左側の男はすっと前に出て方向案内人になってくれたからいいが、右側の大男が並泳しながらハードに当たってくる。私と同じオルカのフルスーツ。ガイジンだ。
 大会の参加者を見ているかぎりでは、オルカを全身にまとうというのは、だいたいガイジン。上から下まで、中から外まですべてオルカという人はガイジン以外、見ていない。日本の人は、チームのものや、人とちょっと違う個性を出すのを好むようである。まるでメーカーのパンフレットかポスターから出てきたようなカッコをするやつは素人っぽいと思われるのかもしれない。ガイジンはそんなこと気にせず、パンフレットのままのカッコをまとめて買う。私もそうだ。
 右のガイジンの当たりが強い。向うもそう思っているだろう。お互い悪気はないのだが、当たると、当たっている側の腕や手が剣呑になってくる。こやつがデイヴィドという名前で、石垣島をはじめ日本のトライアスロン大会に出没していることを後に知った。リメンバーパールハーバー! って、それは逆か。
「ガイジンに負けないで」
 出発前からワイフにそう言われていた。外資系メーカーに勤務しているから、ガイジンに苛められているのだろうか。いや、そうではなくて、私がみごとにガイジンっぽいから、なんとなくガイジンと張り合ってもらいたいのだそうである。そう、今日、私のライバルはガイジンたち。今や肩にナンバリングした屈強な囚人である私は、リメンバーパールハーバー、だからそれは逆なんだけど、戦う。
 私は今日、ガイジンと水中格闘技をしに来た。
 いちだんとデイヴィドの当たりがきつくなりました。でも今日の私、打ち負けてません。だって格闘技をしに来たんですもん。
 大車輪のように腕を回転させ、鉄槌のように振り下ろす。
 大車輪のように腕を回転させ、鉄槌のように振り下ろす。
 大車輪のように腕を回転させ、鉄槌のように振り下ろす。
 相手の当たりが弱くなってきた。
 容赦なく掣肘で追い討ち。
 お、デイヴィドがだんだん離れていきます。打ち負けしませんでした。信じられません。市原の生涯、はじめてのことではないでしょうか。
 デイヴィド、どんどんおかしな方向に泳いでいきます。どうしたデイヴィド! ブイはこっちだぞ。アニメの筋肉マンのように心配を越え、友情の念さえ湧いてくるのだった。
 けっきょくゴールにむけて最後の直線を第二集団の先頭で帰ってきた。防波堤から家族の声援というか絶叫。手を振る。
 さて、そろそろこのへんかと思って足をつけようとすると、虚しく水をかいただけだった。そうこうしているうちに、ふたりに抜かされた。まだ彼らは泳いでいる。大波が来た。考える間もなく押し流された。家族の悲鳴か、爆笑? が耳に届く前に、3人が上陸体制に入るのが見えた。うまいなあ、ああやるんだ、と思ったら私も足がついた。




 上陸したいが、ゴロゴロ岩を踏んで足裏が痛い。
 イタタタ、なんてやっているうちに私を抜いた3人は力強く駆けだして計測地点をめざしている。
 再び家族の悲鳴!
「おとーさーん!!!」



 なよったイテテテの写真から、わずか3秒後の写真である。
 なんだか荒海を行く漁師オヤジみたいな顔と気迫。2枚の写真は同じ人物でしょうか。
 娘の悲痛な「おとーさん!」という叫びは、世界共通条件反射で父を奮い立たせるようだ。
(つづく)