自動車教習7時間目(第2段階)自主経路設定

 今の自動車教習は「自主経路設定」なるものが3時間ある。
 目的地が設定されていて、そこまで自分でルートを選ぶというものだ。教官は基本的に何も口出ししない。
 週末に6パターンの自主経路を2回ずつ練習しておいたので、ルートを間違うことはなかった。ワイフの指導にもとづいた週末鍛練によって、敗残の兵のごとく内省していた俺は、みごと人格改造に成功したらしく、教官も絶賛の思いやり運転に徹することができた。スムーズにいきすぎて時間がたくさんあまりそうだったところ教官が、
「ちょっと遊んでいくかい?」
 とっさにうなずきながら、ゲームセンターとか行くわけじゃないよなぁと考えていたら、クルマがびゅんびゅん来る長い上りの坂道で路肩に止まれと言う。え? え? ここに停まんですか。そう、停まって。
「よし。では、ブレーキを離しなさい」
「え? ブレーキ離すんですか?」
 ミラーを見ると、びゅわんびゅわんクルマがきている。クラッチを半クラッチにしようとすると、
「だめだめ。クラッチ切って、ブレーキ離すの。はい」
 と言われてブレーキリリース。もちろん後ろに、がー下がりはじめる。
「はい、ブレーキ! 今、3秒。いち、に、さん、て数えたね。3秒でこれだけしか下がらないんだよ」
 なるほど1mも下がっていない。
「教習生はあわててるし、今どきの若い教官たちときたら、ああしろこうしろうるさいから、生徒も坂道になるとみんなロボットみたいになっちゃうだろ? 自分では、うわっ下がったと思っても、実際にはたいしたことないんだ。3秒もブレーキ離して、たったこれだけしか下がらないんだから、坂道発進とか思わずに、ふつうにゆっくり発進しても、別にだいじょうぶなのよ。そこを慌てるからおかしなことになる」
「なるほど」
「だろ? じゃ、今度は、ブレーキ離して、どーんと落したらクラッチでキャッチしてみろ。いいか、ミットでボールを受けるみたいに、下がったクルマをクラッチでキャッチするんだ」
 ブレーキを離す。いち、に、さん、でキャッチ。
「そうだ! よくできた。じゃ、もう一回」
 いち、に、さん、キャッチ。
「よーし。ほんじゃ、キャッチしたらちょっとだけ前に動いて1mmだけクラッチを抜いてみろ。いいか1mmだけだぞ」
 いち、に、さん、でキャッチ。ゆっくり前進しはじめたところでアクセルそのままでクラッチを1mm踏む。するとブレーキを使っていないのに、クルマは坂の途中でぴたりと静止。
「よし、じゃあ1mmクラッチ上げて」
 ゆるゆると前進。
「よし、1mm踏んで」
 ぴたと停止。
「よし上げて」
 ゆるゆる前進。
「よし、これが坂道での断続クラッチってやつだ。渋滞してるときなんか、これを知ってると楽だぞぉ」
 横をクルマが何台も通りすぎていく。あやしい動きの教習車にかなり警戒しているらしく、みな、こちらをのぞき込みながら遠巻きに徐行で抜いていく。
「なんか、坂道発進できないでおろおろしているふうに思われてるみたい」
「そう! そこだよ、君。のろのろあやしい動きをすれば相手は警戒して減速する。へただと思わせれば、向こうから止まってくれる。これを合法的なる走行妨害と言うわけ、わははは。まさに路上はテクニックの宝庫なんだなあ」
 このあと教官とふたりですっかり合法的走行妨害にうち興じることになり、至るところで、俺でさえ「え? こんなとこでやっちゃって、いいんですか?」という思うような意味不明の減速を試せと指示され、そのたびにビビり顔で譲ってくれる対向ドライバーを見て爆笑するのであった。
「いいか、こっちが減速したら、相手も気持ち悪いもんなんだ。俺は電車の中で化粧くさい女がいると、頭の上から爪先までじろーりじろーり見るんだな。そうすると、女は向こうから逃げていくよ。わはは」
 教官はハゲ頭を揺らすと、おっ! と言って、俺に減速を指示した。また、合法的走行妨害の実践演習かと思ったら、路肩を高校の制服を着た兄ちゃんが自転車でふらふら走っている。携帯を見ながら乗っていた。
「よし、こいつと並んで走れ。ええい、もっと寄せろ。ぴったり並んで走れ。頭をもっと出す。相手にこっちのボンネットを見せつけるんだ」
「え、やっちゃうんですか?」
「やっちゃうんじゃない、待つんだ。ぴたっと並走して、じとーっとな」
 最初はメールに夢中になっていた兄ちゃんも、真横をのろのろとクルマが走っているのが気になりだしたらしく、ちらちらとこちらを見る。教官はにやにやしながら窓に肘をかけている。ついに兄ちゃんは根負けして携帯を胸ポケットにしまうと、歩道に入った。
「やったー! ほら、これで君は自分の手をよごさずに自転車をやりすごせたわけだ! わははは」
 このあと俺もだんだん自信がでてきて、「魔の加交差点」に行かせてほしいと頼んだ。先日、坂道発進失敗でマジェスタにぶつかりそうになったところだ。折りよいタイミングで、坂のいちばんきついところ、つまり信号待ちの先頭で信号が赤になり、
「よほほほ、いいタイミングでゲームスタートだぞ。よし信号待ちのあいだにもうちょっと遊ぶか」
 後ろにクルマがいるというのに、ここでも教官はブレーキを離せ、クラッチでキャッチしろの練習を指示。そして、ブレーキを踏んだままクラッチをゆっくり離してみろ、回転が下がったな、ではアクセルに踏み替えろ、クラッチそのままで、思いっきりアクセルふかせ、ばおおおー、「もっと思いっきり!」でベタ踏み、ばおおおおーー!
「どうだ? クラッチを一定にしとけば、進まねえだろ? 要するに失敗してアクセルを少々どかんと踏んだところで、クラッチさえできてればビビるなってことだよ。お、信号青になったぞ。本番だ。進め!」
 すいーんとオートマのように発進。感激した俺は、
「先生、今、ブレーキ踏んでました?」
「いんや、おりゃぁ、何もしとらんよ」
「ぜんぜん下がんなかったです」
「だろう? まさに路上というのはテクニックの宝庫なんだなぁ」
 発着点にもどってもまだ時間があった。
「よし、じゃ、もうちょっと遊ぼ」
 このあと、話は「お前はハンドルを握っていて地球の重力を感じるか?」というところから50億年の壮大な宇宙の歴史へと言及が及び、教官の個人史の中で、自動車整備士2級や法律学科を卒業したことに触れつつ、クルマの構造的な話、道交法の成立とその意味と博物学的に話は広がった。
「あらら、時間すぎちゃった。ごめんね」
 と、ちょっと急いで教習所にもどる。最後の最後、教習所への入口のところで非常ブレーキを踏まれた。
「ほら。自転車。せっかく巻き込み確認やったのにねー、じつにうまいタイミングでどっからか自転車が出てくるだろ? ここはな、教習所の回し者をしこんでるんだ。教習生をワナに落として一回百円。あの自転車の女はアカデミー女優賞モノだな、タイミングばっちりだ。ということで、卒検のときとか、ここは気をつけましょう」
 そう言うと教官は、「はい。この時間は大成功!」